あたりは、炎に包まれていた。
赤い、赤い、正義の炎。
しかし、正義の名のもとに正当化された業火には、その名に似合わぬ激しい感情が浮かんでいる。
そう、そこにあるのは憎しみ、恐れ、恨み・・・すべての人間の憎悪と脅威が詰まったその刃は、誰にとめられただろうか。
そして、その中心に一人、佇んでいたのは、他ならぬ、自分だった――
「降参しろ、レオンコート。貴様を――の罪で逮捕する。」
ここにきてまだ、その名で呼ぶのか!
彼は、全身の毛が逆上して逆立つのを感じた。そしてこれは、比喩などではない。実際に、そうなった(、、、、、)のである。
「この、化け物――ッ!」
このとき、炎を取り囲む人物たちの中から、この場に最もふさわしくない、美しい女性が踊り出た。
恐ろしき罵詈雑言を放ちながら、彼女は、異端審問局員の一人から、強引に火器を取り上げる。局員が悲鳴を上げるのもかかわらず、彼女は、強引に引き金を絞った。
――バァンッ!
鈍い金属音とともに、秒速球の鉛球が、彼の近くの地面で跳ね上がった。
「おいおい・・・やめろよ。お嬢さんの持つモンじゃねえだろ?ソレは」
レオンは、自分に迫り来る弾丸を寸でのところで交わしながら、彼を害そうとした主に注意を呼びかけた。
そう・・・彼女は、自分の自慢の妻(、、、、、、、)だった。
しかし、当の彼女は、いとしの夫の忠告など、全く聞いてはいなかった。
「黙りなさい黙りなさい黙りなさいったらッ!誰のせいでこうなったと思っているのッ!?私は、あんたのことを信じていたのに!あんたのことを、本当に信じていたのに・・・!
まさか、こんな形で裏切られるとは思わなかったわ・・・まさか、こんな形で、私のすべてが、終わりになってしまうだなんて!」
彼女は、再び彼に狙いを定めた。
まっすぐに突き出された腕が、慣れない仕事に震えている。まさか、銃を持つ日が来るなんて思わなかっただろうに。ましてや、その銃口を、誇り高きヒスパニア軍人レオンコートに・・・・自慢の我が夫に向ける日が来るとは!
「私は、あんたのことを、誇りに思っていたのよ・・・。あんたは、ヒスパニアの大物軍人。部下からも、周囲の人たちからも、誰からも慕われて、私も、まるで自分のことみたいに、本当に嬉しかった・・・
私ね、もう終わりなのよ。異端審問局が、私のこと、異端者だというの。私は、化け物と結婚した。化け物の子供も産んだ。それだけで、もう立派な異端者。
でもね、やつらは言ったわ・・・もし、わたしがあなたを殺せば、私の罪は消えるって・・・
だから、私は、今ここにいるの。分かったでしょう、レオン?」
「く――ッ!」
レオンは歯噛みした。既にそんなところにまで、教皇庁の手が回っていたとは!
部下にも裏切られた。かつて自分を慕っていた、多くの仲間に裏切られた。
それでも、妻だけは、最後まで自分の味方だと、彼はずっと信じてきた。ほかならぬ自分の選んだ、最高の女性だから・・・・!
「こんなことなら、最初から出会わなければよかった・・・・出会わなければよかった(、、、、、、、、、、、)のよ・・・・」
「――ッ!!」
レオンは目を剥いた。それは、最も聞きたくない言葉だった。
それは、すべてを否定する言葉だ。それまでの彼の幸せな人生の全てを、一瞬にして塵芥に帰す、最恐の言葉だ!
「さようなら、レオン。私のために、死んで頂戴。」
「うおおおおおおおおおっ!!!!」
レオンは吼えた。その声に、彼女はわずかに怯えの表情を見せる。しかしそれでも彼女は、目を瞑って引き金を引いた!
――刹那。

死んでもいいと思った。
彼女がそれを望むのなら、それでもいいと思った。それが、彼女を騙し続けた自分に出来る、最期の報いだと思った。
しかし――
「――ファナ。」
彼はとっさに、妻の渾身のショットから身を回避していた。ほとんど無意識の行為だった。なぜなら、そうでもしなければ――
「なんで、おまえがここに・・・?」
娘――ファナが、炎の渦の中を、飛び込んできたのだ!
「ぱーぱ!こわいよ!助けて!ぱーぱ!ぱーぱ!」
「お、おい。いいからちゃんと話せって!・・・なんだって?」
「みんながおそってくるよっ!ままも、ファナをころそうとしたっ!ねえ、どうしてなの、ぱーぱ?!」
「!!!」
ほとんど、最後の方は、娘の声が届かなかった。
「――オマエらッ!!!」
「娘には貴様の獣の血が混じっている。・・・同罪だ。」
「なんだとォォッ!」
冷徹を極めた異端審問官の答えに、レオンはほとんど、自我を失った。
この「神の使い」たちは、教会の権威のために、幼い娘まで殺すというのか!
レオンは、全身に力を込めた。それだけでもう、「変化」出来ると悟っていた。
もう何年も使ってこなかった能力だ。そして、これから先ももう、一生使うことがないと思っていた。
まさか、こんな形で開封することになるとは。
おそらく、ここで完全に「変形」してしまえば、自分は完全に自我を失うだろう。
彼らの恐れる通りだ。解放された獣は、見境なく、周囲の肉を食い荒らす。すべてを破壊して、そこで初めて、自我に目覚めるのだ。
「ねえ、どうしてなの?ぱぁーぱっ!ぱぁーぱっ!ぱぁーぱっ!」
娘の声が、サイレンのように、最後まで彼の耳に響いていた。



「・・・・獣と化した彼は、見境もなくほとんどの人間を殺していたと聞きます。・・・彼の妻も、含め。そして、奇跡的に生き残った彼の娘は、そのまま、異端審問局によって確保されたようです。」
言い終えると、カテリーナは、ふと書類から目を挙げた。視線の先には、パイプ煙草をくわえながら、ソファにもたれかかった一人の紳士の姿がある。
「ほう、“確保”ですか。すると、彼らは、その娘を殺さなかった、と?」
紳士――“教授”は、そう聞き返すと、興味深げに顎をなでた。
「ええ。兄上が、はっきりとそう言いました。おそらく、彼女はまだ、局員の手に委ねられているのでしょう。そして、まだ生きているはずです。」
「ふむ。」
確かに。カテリーナの言ったことは、“教授”の考えとほぼ同じだった。
本来、その場で撃ち殺してもいいはずの父親を、わざわざ面倒な裁判にかけてまで生かそうとするのは、何も彼の存在に必要性があったからではない。異端審問局の狙いは、最初から幼い娘の方だったのだ。
獣体化可能な人間の遺伝子を宿した子供など、彼らにとっては格好の実験材料ではないか。彼らが、あらゆる手を講じてでも手に入れたいと考えるのは、当然のことであろう。
しかし、彼女は異端者の娘だ。捕らえれば即刻死刑が決まる。
だから彼らは、娘の裁判を遅らせるために(、、、、、、、、、、、、)、レオン・ガルシアの裁判をあくまで引き伸ばしたいのだ。彼らの実験のために、時間稼ぎとして。
カテリーナの次の言葉は、そんな二人の同意を如実に示すものであった。
「・・・もっとも、その娘が人間として(、、、、、)生きているかどうかは、わかりませんが。」
カテリーナが表情一つ変えずに告げた言葉に対して、教授は、彼女の代わりに眉根をよせた。
「彼らのすることは、毎度ながら残酷ですな。全く、なんとも惨い事だ。」
「しかし、我々にとっては非常に好都合ではあります。レオンコートは随分と切れ者で、交渉にも長けていると聞きますからね。おそらく、手放しでこちらに招き入れることは出来ないでしょう。――たとえ、彼の命と引き換えであっても。」
カテリーナは、言い終えると教授をまっすぐに見た。その目を見ただけで、彼女と付き合いの長い教授は、もうすっかり彼女の言わんとすることを掴んだようだ。
「ええ、分かっておりますよ、ミラノ公。その表情をなさるときは、決まって何か妙案がおありのときだ。皆まで言わずとも結構!それで、小さなお嬢さんは今、どちらに?」
その名にふさわしいしぐさで教授はうなづいたが、その表情は既に、どこか悪巧みをする子供のように微笑んでいる。
「彼女は今、――にいます。では行って頂けますね、教授?」
「仰せつかりました、倪下。」
快い返事とともに、教授は颯爽と部屋を後にした。