その日、レオンはいつもより早く起きて、独房を抜け出していた。
その日は、彼の命日となる日であった。彼は、一週間ぶりに部屋を出され、法廷へと召喚される。その場で死刑が決まり、すぐに刑は執行される運びとなる予定になっていた。
結局、救いの手は伸べられそうにない。
フランクルには申し訳ないが、どうやら彼が生き伸びることは、不可能なようだ。
「まさか、爺さんより先に逝くことになっちまうとはな・・・・・・。老い先短い老人も、馬鹿にはできねぇや。」
しかし、つぶやく彼の声は、殊のほか明るい。死を間近に控えているというのに、彼の表情には、少しも恐れや悲観など見られなかった。無罪を確信した被告人でも、ここまで明るくはいられないに違いない。
「しっかし、アレはなかなかに面白れぇ爺さんだったな。まあ、神さんがいるかどうかなんざ、俺にはわからんが、あそこまで信じ込んでるところには、なんつうか、ある意味感服すると言うかな。」
そして、レオンは少し神妙な顔つきになった。
「・・・まあ、もう少しはやく会ってりゃあ、俺も今ほど無神論者にならなかっただろうにな。ありゃあ、ある意味宗教だぞ。あの身一つで、信者が何百人とついてきそうだ。」
しかし、神妙な顔つきは、次の瞬間にはもうふざけたニヤケ顔になっている。
「うっへぇ。怖ぇ怖ぇ。もしそうならボロ儲けじゃねえか・・・・・・ん?」
まさか、と感じた瞬間には、もう彼の顔は青ざめていた。
――妙に悟りきった老人。
こんなところに入るには、もう歳が行き過ぎているし、こんなところに入るに相応の大悪事をやらかしたとも思えない。
その彼をなぜ、教皇庁はここまで厳重に外界から隔絶しようとするのか?
そしてその老人もまた、このような隔絶された空間の中で、なぜ長生きが出来るのか?
「・・・」
レオンは絶句した。
むしろ、今までこのことに気づいていなかったわけではない。わざと気づかぬフリをしていただけだった。・・・そのつもりだった。
本当は、うすうす感づいていたのだ。老人の妙に悟りきった顔。閉鎖空間をものともしない強靭な精神。これが崇高なる「宗教犯」でなくて、何だといえるのか。
しかし、それを今まで深く考えずにいたのは、自分がもうすぐ死ぬ存在であり、老人に深く関わる気がなかったからだ。
では、なぜ今更、こんな思いが沸き立ってくるのだ?なぜ?・・・なぜ?
――それは、自分がこの老人の信者となったからかもしれない。
その考えが頭をよぎった瞬間、いつもの老人の部屋の様子が、いつもと変化していることに気づいた。
・・・一人の老人が、部屋の隅に倒れていた。
「――おいッ!しっかりしろォ爺さん!」
レオンはあわてて老人の体を抱き起こした。
思ったより軽い・・・・彼にとっては、ほんの紙ほどの重さの体が、彼の腕の中で微かな息をしていた。
そして、その息の中で、老人は虫の泣くような微かな声を出した。
「・・・いかんのう、レオン。自殺しようとしている者を助けることは、この牢獄の中では禁止されておる。お前さん、この上にまだ罪を重ねるつもりか?」
「ンなもん、いまさら一つ増えたって大したことないだろッ、俺の犯したっつー罪なんかに比べたらよ!」
「まあ、確かにそうかも知れんな。おまえさんは大きな男じゃ、レオン。わしはお前が羨ましい・・・・」
フランクルは、虫の息でゆっくりとレオンに向かって手を伸ばした。その手首には、昨日までなかったはずの痛々しい傷あと。薄暗い中で、ドス黒い血の色が邪悪な光を放っている。
レオンは、力ないその手を、曲がりそうなほどに強く握り締めた。
「何で・・・何で、自殺なんて血迷ったことしたんだよ!?」
「今日が・・・・・・開放される、日だ、ったんじゃ。」
「・・・・何だと?」
「ほれ、前に話した、じゃろう。わしは・・・夢を、見たんじゃ。そこには、主が・・・主が!立っておられた。そして・・・わしに、何でも好きなこと、を訊いてよい、とおっしゃられた。
わしは、訊いた・・・わしにとって、自由になれる日、は、いつかと。すると、主は笑って答えられた。それが、今日(、、)じゃ・・・・。」
主と言う言葉を発した瞬間、フランクルの表情が、少しほころんだ。
まるで神のような、大らかな微笑だ。まるで、約束どおり“主”が彼に、「快楽」を与えたことを証明しているかのようだ!
「ずっと、解放されると、思っとった・・・逆じゃった、今日が、わしの命日じゃ。
珍しく、食事に大層尖ったナイフが出されたとき、わしは全てを悟った。なぜわしは、今までこんな苦しい生活を送ってきた?最近、めっぽう痩せたのは?・・・・すべての答えじゃよ。今日、死ぬのに、何不自由ないようにと、主が張られた・・・・伏線じゃ。」
――違う!
老人が言い終えるのとほぼ同時に、レオンは心の中で叫んでいた。
「そんなわけねえだろッ!頭は元気か、この耄碌ジジイ!」
「おお、お前のその声を聞くと、急に痛みが和らいできたわ・・・もう一度、言っとくれ。お前さんの元気が、わしの何よりの快楽じゃ・・・・」
そういい終えるや否や、レオンに向かって伸ばしていた老人の片腕が、力なく垂れ下がった。そして、彼はゆっくりと目を閉じ、そのまま・・・動かなくなった。
それが、かの聖天使城の永久住人、ヴィクトール・フランクルの「最期」だった。
「・・・・っちい。まったくそれっ気がないもんだから、すっかり油断してたぜ・・・まさかこの爺さんまで血迷っていたとはな・・・・」
レオンは、負け惜しみのように、誰もいない空間に向かって呟いた。
いや―
・・・
本当に、なんの予兆もなかったか?
言葉とは裏腹に、疑問が頭をもたげた。
急に饒舌になって主の話を始めたとき、レオンは老人の戯言としか考えなかった。少し痩せているように見えた時も・・・・
フランクルは、ちゃんとサインを出していたはずだ。気づかなかったのは、愚かにも自分の方だった(、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、)
「何だよ・・・・爺さん・・・あんたの信じた“主”って、何だったんだよ・・・・。」
このとき、普段は泣くことなどなかった獣の目から、大粒の滴が零れ落ちた。
一滴・・・・二滴・・・・三滴・・・・
そして、次第にそれは雨になって、安らかに眠る老人の体に降り注いだ。
「全然、あんたを救ってくれなかったじゃねえか・・・あんたは、“解放”されたかったんだろ?死にたかったんじゃ、ねえはずだぜ・・・
クソッ!俺には死ぬなっつっといて、身勝手すぎるぞッ!爺さん!!」
その瞬間、獣は咆哮した。叫び声が主の下に召された老人にも届くように。主が彼の声を聞きつけて、自身の行いを死ぬほど反省してくれるように・・・・
「・・・シア。おい、レオン・ガルシア」
しかし、彼の感傷を、看守の固い声が打ち破った。
どうやら、法廷へ向かう時間のようだ。そう、老人と同じく、彼が主の下へ召されるための。
(・・・いや、俺の場合は主じゃなくてサタンだろうな)
最初は無視してやろうと思った。しかし、看守は今も尚、彼の名を呼び続けている。その声は鋭く、彼をどこか威嚇しているようだ。
「――レオン・ガルシア、どうした!」
看守の声に、ふと怪訝そうな色が混じった。いつも看守は、檻も見えぬ遠くからレオンを呼んでいた。おそらく、彼の所業を知っていて近づくのを恐れているのだろう。レオンもそのことを察して(、、、)、看守の問い掛けにはすぐさま応えるようにしていた。たとえ、遠くからでも。
しかし、今日の看守はどうやら違うようだった。声がだんだん近づいてくる。勇敢にも、檻の傍まで寄ろうというのか?
「うおっ、やべっ」
そのことに気づいた瞬間、レオンは反射的に重い腰を上げていた。その義理もないというのに、真面目にも看守の声に荒げた応えをしながら、檻へ全速力で戻る。こう ――しかし、そこにいたのは、彼をこの中に閉じ込めた異端審問官ではなかった。
「なんッ、だと・・・・・?」
代わりにそこに立っていたのは、二人の見知らぬ聖職者たちだった。
一人は、こんな薄暗い地下にはふさわしくからぬ、赤い法衣に身を包んだ金髪の女麗人。
そして、その傍らには、彼女の騎士のように佇む、一人の武装した(、、、、)神父。
・・・これが、フランクルの示唆していたところの、彼の新たな人生の始まりとなる、出会いであった。




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