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12月に入ったというのに、今日はよく日が差し心地よい晴れの天気になっていた。
そのせいか、ローマ市内は、もうまもなくやってくる降臨祭に心躍らせる人々であふれ、通りは行き交う人々の波が後を絶たない。
そして、そんなこの世の喧騒をゆったりと眺められる所に、洒落たオープンカフェが立ち並んでいる。
しかし、そこでもまた、人々の波をも超越するようなひと騒動が、起ころうとしていたのだった。
「はあ。では、それはつまり、もの凄い資料だったってことなんですね?」
目の前にずらりと並べられた料理をほおばりながら、ひょろりとした長身に牛乳瓶の底みたいな丸眼鏡をかけた男―アベルは言った。
納まりきらない銀髪が皿の上に垂れて汚れ,本人同様、食い意地の汚さを見せている。その上、彼の口の中では、既に詰め込まれた料理たちが満員電車以上の混雑ぶりを見せていて、相手が的確に彼の発言を捉えることができたかも、甚だ疑わしかった。
いや、この場合は、互いにとって、発言を正しく理解することはさほど重要ではなかったかも知れぬ。何しろ、発言主のアベルは、相手が大量の食事を挟んで話をしている間も、ずっと食べることに夢中で、相手の語る専門的な学術論などほとんど頭に入っていなかったのだから。
そんなアベルにとって、長い講義の末に出した答えは、彼の理解することのできた範疇を表す、もっとも的確な言葉に過ぎなかった。
だが、彼をこのカフェに誘い、長々と話をしてきた主―教授ことウィリアム・W・ワーズワースにとっても、アベルの発言のいい加減さは、どうやらさほど重要ではないようだった。
「そのとおりだよ、アベルくん!いやあ、分かってもらえて嬉しいよ。さすが、昔馴染みなだけはある。ダテに何十年も付き合っていないねえ〜」
教授は、アベルの適当な返答に、とても満足げに頷いた。そればかりではなく、いまだ食べることに夢中なアベルの手をいきなり取ると、大袈裟なまでに上下に揺らした。
「あ、やめてください教授、お腹にひびきますって、食べた直後の運動はどうか・・・。」
「おおっと、失礼。」
苦しそうなアベルの顔に気づくと、慌てて教授は彼から手を離した。反動でいすに倒れこんだアベルは、ゼーゼーと息を吐く。
「えと・・・あのぉ、それでですね・・・」
少しむせ気味なままで、アベルは顔を上げた。教授が少し眉根をよせて彼の顔を見る。
「奢ってくださるのは嬉しいんですけど、そのぉ、もうそろそろ、ご用件の方を話していただけませんかね・・・?」
「おお!そうだったね!」
その言葉に待ってましたとばかりに頷くと、教授はやたらと重そうな鞄から、幾何学的な間取りの図面を取り出した。
「いや何、君のその派遣執行官としての実力を見込んで、ぜひとも頼みたいことがあるのだよ。」
「はぁ・・・」
そういいながら、教授は早速テーブルにその図面を広げた。大所帯でテーブル一帯が埋まってしまい、大切な食事を奪われまいと慌てたアベルは、近くの一皿をひょいとつまみ上げる。
「あの、教授、何なんですか。これは、一体?」
「君には何に見えるかね?」
「そっそーですね・・・このやたら長ったらしい廊下とか、だだっ広い広間から見るに、これはどこかの迎賓館か、省庁の建物とか・・・」
「ふむ。確かに近いが、もう一歩踏み込んでほしいところだね。たとえばアベル君、こんなところに注目してみてはどうかね?」
教授は手にしていたステッキで、図面の中の一点を指し示した。アベルはその一点を穴ができそうなほどじっと睨む。図面の中でも一際建て込んだところに位置しているそれは・・・
「これは、執務室・・・?って、この配置はどう見ても、国務聖省本部、剣の館じゃないですか!」
「ご名答。いやあ、さすがはアベルくん。物分りがいいねえ。」
「でも、この地図、普通の館内案内図sとかじゃないですよね?天井裏の抜け道とかまでちゃんと書いてありますし・・・こんなモノ、一体どこで手に入れられたんですか?」
「まあ、そこいらの資料室から、ちょいちょいとね。」
「はあ。権限で頼み込んで、もらってきたわけですね。」
アベルは、呆れて頭をおさえた。
なんだか無性にいやな予感がするのは気のせいだろうか。どうかそれが、単に昨日食べた厨房の残りがあたっただけだと思いたい。
「それで、こんな地図なんか持ち出して、一体私に何をしろって言うんですか?カテリーナさん絡みなら、謹んでお断りしますよ。」
アベルもあの上司の怒りは恐ろしい。うっかり怒らせたりなんかすると、とんでもないことになったりするのだ。
しかしー
「さすがはアベルくん、よくわかってるじゃないか。」
「ほへ?」
「そうなのだよ、君にぜひとも頼みたいことというのはだね、この天井裏の通路から侵入して、執務室からとある重要書類を取ってきてもらいたいということなのだよ。」
「はいい!?」
どうしてそんなことをしなければならないのだろうか。だいたい、泥棒でもあるまいし、書類がほしいなら、カテリーナにじきじきにそう言えばいいではないか?
アベルがそんな疑問たっぷりの顔を向けると、教授は照れたような顔をして後ろ手で頭を掻いた。
「いやあ、それが、ミラノ公が頑なに書類の閲覧を拒むのでね。やむを得ずこういった手段に出たわけなのだよ。本当は僕自身としても、こんな手荒な手は使いたくはなかったのだが―」
「それで、どうして私にその役目が回ってくるんです?そういう恐ろしいことはどうかご自分でやってくださいよ。」
教授の長々しい口上を打ち切って、アベルは思いっきり非難がましい目で教授を睨んでやった。この学名高い学者は、自分の知的好奇心を満たすためならなんだってやるらしい。現に、ごまかすようにして照れ笑いを浮かべている彼の顔に、大きくそう書いてある。少なくとも、そういう風にアベルには見える。
「しかし、アベル君。」
教授は、ふと真顔に戻ると、学者らしい生真面目な気質さで眉根を寄せた。そして、それとともに差し出されたのは、わざとらしいまでにピンと立てられた人差し指。俗に言う「主人公の決めポーズ」の一つ、と言うやつである。
「人生には、どんなことをしてでもやり遂げなければならないことがあるのだよ。たとえそれが、上司に逆らうことになろうともね。」
「はっはあ・・・。」
また似非っぽい説教を始めようとする教授に、この学者の高名さを嫌というほど知っているアベルさえも呆れた。このままだと、日が暮れたって終わりそうにない。一応自分だって、この人の止め処もない講義につきあっていられるほどには、暇ではないのだ。
「でもですねぇ、教授。それと今の教授のお願いと、どう関係があるって言うんですか?それに、たとえそんな状況であっても、私は、カテリーナさんにだけは絶対に逆らいたくありませんよ。あの人に逆らっていいことなんて、何一つありませんからね。いったんお怒りが下ったら最後、天下の神様だって、きっと両手を上げて逃げ出すに決まってるんです。」
アベルの必死な口上に、教授は興味深げに頷いた。まるで、学術上の専門的な論議でもしているかのような顔になって、几帳面にパイプタバコをふかせる。
「ふむ、しかしだからこそ、君は、同僚である私が、その危険を冒してまでも何かに挑もうとしている、その志高き精神に感銘を受け、応援しようとは思わんのかね?」
「思いませんっ!これっぽっちも思いませんっ!どんなに凄い精神だかは知りませんが、そういうのは、世の中では無謀って言うんです!」
「そうか・・・仕方ないな。いや、実に残念だ。」
現に、彼の発言は彼の表情から振る舞いまで、全てにおいて裏づけされていた。教授は、それは憂いに帯びた顔でアベルを見たのだ。
「君には、日頃から仲間としてよくしてもらっている。だからこそ、君だけには、私のこの気持ちを分かってもらえると思っていたのだが・・・」
「?」
「しかし、そういうことなら、私も納得せざるを得まい。君が同僚である私より、上司であるミラノ公を優先すると言うのなら、私はおとなしく引こう。」
「え、ホントですか?」
意外とあっさり引き下がったのを見て、アベルは思わず満面の笑みになるのを禁じえなかった。教授には悪いが、彼にとってはこういう頼み事はよそでやってほしいことだ。そう、自分とは全く関係のない、よその世界で・・・
「そういうわけだ。それでは、私はおとなしく行くとするよ。それじゃあ、あとのことは頼んだよ。」
「ほへ?」
さりげなく、しかもいつの間にやら置かれていた伝票をステッキでコツンとつつくと、教授は傍らに置かれていた帽子を手にとった。
「ではね、アベル君。」
「あああっ、ちょっと待ってください、教授!」
今にもその場を辞そうとしていた教授のフックコートを、アベルは慌てて掴んだ。飛ぶ鳥跡を濁さずの如く、きれいさっぱりその場を去ろうとしていた教授は、掴んだ主を訝しげに見つめる。
「後は頼んだって、どういうことですか!?まさか教授、私のこのお勘定をしろと?」
「だって君は、今この瞬間、私のことを疫病神か何かのように思っている。すぐにこの場から去りたいともね。だから、私の方が、君の思いを察してこの場を辞そうと思っただけだよ。」
確かにアベルとしても、せっかく相手が身を引いてくれたというのに、わざわざ自らそれを引き戻すのはいやに決まっている。しかし、それでもこの場合に限っては、引き戻すしかなかった。
というのも、先程からウエイトレスが、警戒した目つきでこちらを睨んでいる。ここは引くわけには行かなかった。このままでは、書類窃盗云々の前に、無銭飲食でしょっ引かれてしまう。その地点で、カテリーナのお叱りをくらうことは必至だ。
「たっ確かに、今この瞬間あなたは疫病神ですけどっ、でも、ここであなたに行ってもらっちゃ困るんです!私、こんな高価な額、生き血を絞ったって今すぐにつくれないんですから!」
「ふむ。」
アベルの必至な説得の甲斐あって、教授は納得した様子で顎に手をやった。
しかし、次の瞬間彼の口から飛び出したのは、アベルが思いもしない言葉だった。
「では、私に賛同してくれると言うのだね、アベル君。」
「はいい?」
「だってそうだろう?去っていこうとした私のことを、君がわざわざ引きとめたんだ。これはつまり、君の良心が私を支持したということだろう?」
「そっそんなことひとっことも言ってませんよ、私!?っていうか、むちゃくちゃ強引じゃないですか、教授!?そういうのを恐喝って言うんですよっ、世の中では!」
「それで?」
教授がまっすぐにアベルを見つめた。おどろおどろしいまでに眉根を寄せた表情と、地底から湧きあがるような低い声で問い掛ける。
「君はどうなのかね?アベル君?私に賛同するのか、それともここで再び私を突き放すのか―。」
「きょっ教授うぅぅ!!!」
アベルは欲求不満の牛のように唸り声を上げたが、次の瞬間、虚しくまでもあっさりと頭を垂れたのだった。
to be continued…
〜あとがき〜
数日ぶりのご無沙汰です、皆様。慧仲です。
灰色文献第2話、いかがだったでしょうか?
軽く教授を暴走させて見ました。まあ、これだけじゃあ終わらないんですけどね、もちろん☆
次回をお楽しみに・・・
(なんて言ってしまってよいのやら、よくわかりませんが;)
さて、もうそろそろ紹介にもあったほかのメンバーが登場してくるわけなのですが。
もしかしたら、中にはトリブラサーチから来てくださった方もいらっしゃるかもしれない(淡い期待・・・)ので、
もしかすると、軽く疑問を覚えていらっしゃる方が、中にはいらっしゃるかもしれません(←?)
というのも、原作をすでにご存知の方にとっては、この時期にはすでに微妙な存在となりつつある、彼―
さすらいの剣士、ユーグです(いつの間にそんな通り名が?)
彼は、もしかしたらこの時期(AMの一年後)にはいないかもしれないんですよね。
いやいや、でも、九条キヨ氏の漫画にも出てたし、どっちかっていうと、「いる」可能性の方が高かったわけだし、出してしまえ〜!
ってなわけで。
いよいよ登場です(いきなり。。。)
この際、彼にも暴走してもらおうかと画策しているところなので、
教授同様、彼の活躍ぶりにも、期待・・・あれ?
それでは、よければまた次回もお付き合いくださいませ。
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