Grey Literature ―灰色文献―



覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。
(ルカによる福音書12章第2節)


「先日のカルタゴの件ですが。」
カテリーナは、ゆっくりと顔を上げた。片眼鏡モノクルの奥の視線が、どこか冷徹さを帯びたまま対面の男に向けられる。
「何とか今週中にはカタがつきそうです。少なくとも、そこで起きた事の詳細については、不問に帰すべしと判断したようね。」
“世界で最も美しい枢機卿”と呼ばれる彼女は、うんざりとした声で事実を述べた。
ローマ、国務聖省本庁舎―通称、“剣の館パラッツォ・スパーダ”。
それは、教皇庁の中枢機関の一つとされる国務聖省の中枢部である。
そして、その剣の館の中でも、特にここ執務室は、国務聖省長官がおわす極めて高貴な場であった。
そう、国務聖省長官―カテリーナ・スフォルツァの。
そして、今ここで検討を続けているのは、このローマでもきわめて高貴な二人だった。
「まあ、そうでしょうな。我らと異端審問局の対立は今に始まったことではありません。今更、それを体現化するような事実を一つ突き出してきたところで、まったくナンセンスなことに過ぎないわけですし。」
彼女に答えて発言した主は、アルビオン独特の面長の顔をした中年の男だった。
すました口調で火の入っていないパイプタバコを銜えている様などは、いかにも学者ですといわんばかりにいかめしい印象を与えている。
そう、彼―ウィリアム・Wウォルター・ワーズワースは、実際にローマ大学院に務める正教授である。そして、それとともに彼は、カテリーナが信頼を置く部下でもあった。
「まあ、しかし、決議もすんでしまった今となっては、もう憂慮することでもありますまい。それより、新年会の準備のほうはどうですか?すべて、滞りなく?」
「ああ・・・そういえばもう、そんな時期でしたね。」
思い出したような顔をした枢機卿に表情には、どこか悩ましげな色が浮かんでいた。
「そうですね。今回は例年にも増して念入りに準備を進めておかないといけませんし。前回のことがありますから。」
「そうですな―。」
前回―今年の最初に行われたスフォルツァ城での新年会は、さんさん燦々たる結果として、今も一部の者たちからは非難され続けている出来事であった。
新年会の真っ最中に、新教皇庁ノイエ・ヴァティカーンの残党がスフォルツァ城を占拠し、集っていた教皇庁の重役たちに甚大な被害をもたらしたのだ。
そのせいか、今回の宴は招待状を送る以前から欠席を表明してくるものが少なくない。そのため、今回の新年会は、何が何でも成功させねばならない重要な催しとなっていた。
「しかし、あれ・・からもう一年ですか・・・。」
「さよう。まもなく一年になりますな。」
しかし、このとき彼女たちの頭の中にあったのは、悲惨な新年会の結果などではなかった。
むしろ、それをきっかけとして彼女はやつら・・・の本拠地とみられる場所を突き止め、その破壊に成功している。しかし、同時に両者に甚大な被害をもたらしたこの事件は、国務聖省でもほんの一部のものだけが知っている極秘の出来事であった。
「あれから一年・・・あれ以来やつらは、また息を潜めたまま、姿を隠してしまいましたが。しかし、まさかあれで終わりというわけはないはずです。少なくとも、私たちはまだあいつ・・・のところにまではたどり着いていない。そして、あいつがいる限り、やつらとの戦いが終わることなどありはしない・・・。」
珍しく熱の入った様子で、若き枢機卿は拳を握り締めた。先ほどの討議ではまったく見られなかった熱意が、傍らの教授にも痛いくらいに伝わった。
「本当に崩壊したのか・・・こんなにも静かにされたのでは、かえって疑わしいほどだ。」
この世のものとは思えぬほど憎々しげに、カテリーナは呟いた。とても世界で“一番美しい枢機卿”のものとは思えぬその声からは、今まさに彼女の中で激しいまでの憎悪が蠢いているのが見て取れる。
ここのところ暗い話題ばかりだ。若き上司の姿をため息交じりに見つめると、教授は、討議中の重い話題から逃げるようにして背後に目をやった。
「・・・ほう、これは。灰色文献ですな。」
さりげなく机に目をやった教授が、そこに並べられた書類の一つに感心した声を上げた。
灰色文献―それは一般に市販の流通ルートを通さない文献の事をさす言葉で、政府の行政書類や未発表の学術論文などをさす。
ローマ大学院でも文学部と理学部で教鞭をとる教授にとって、さりげなく目にとまったその資料は、よほど彼の興味を引いたらしい。
「なになに。学術論文ですか、しかもまだ発表前の?どうしてこのようなものがあなたの手元に?」
学者らしいすました言い様に、カテリーナは魂を救い上げられたかのように、ふと重い頭を上げた。
このアルビオン育ちの紳士は、どんな状況においても必ずユーモアを忘れはしない。口調同様にすました表情でパイプタバコをふかせている彼を見ると、カテリーナは少し表情を緩ませた。
「あら、教授。私これでも国務聖省長官でしてよ。灰色文献の一つや二つぐらい、持っていても当然ではなくて?」
同じくすました口調で答えて見せると、教授はさも納得した様子で顎に手をやった。
「ふむ。そうでした、愚問でしたな。」
舞台芝居に出てくる役者のように、教授はわざとらしいほどに大袈裟に頷いて見せた。台本どおりにも見えるそのしぐさの中で、どこか上目遣いだった視線だけが、伺うようにカテリーナを見つめた。この動作をされるとき、カテリーナはどうしても彼女がまだ子供であった時の気分を思い出してしまう。まるで、落ち込んだ子どもをさりげなく励ます大人を見たときのような―
そして、カテリーナが思いにふける間にも、教授の大袈裟なまでに冗漫な語りは続いた。
「しかし、これは何とも珍しい・・・ややっ、これはもしや、最新の研究論文ですか?しかも、著者はあの高名なるレオナルド・フィボナッチ博士でいらっしゃる!」
教授は興奮して叫んだ。それは何も演技やお世辞の類ではなく、彼の本心からの言葉なのだろう。何しろ、レオナルド・フィボナッチと言えば教皇庁内でも有名な数学者だ。今までにも、『算盤の書』や『平方の書』といった著書で世の中を騒がせてきている。
「お分かりになりますか。さすがですわね。私にはもうすっかり何のことか・・・」
カテリーナが思い悩むように目を細めると、教授は更に声を荒げた。
「分かりますとも!私を誰とお思いですか?ローマきっての知性の持ち主、ウィリアム・W・ワーズワースですよ。その私に、この分野において分からないことがある筈はありますまい。」
その言葉に対しては、今度はカテリーナが微笑む番だった。
「そうでしたね。確かに、学者としても高名なあなたなら、このような論文など赤子の手をひねるように読めてしまうのでしょう。」
「いやいや、とんでもない。そこまで言われてしまうとこちらが萎縮してしまいますな・・・何しろ、著者はあの数学会の権威者であられる方だ。そんなことを言っては私のほうが怒られてしまいますよ。」
軽い笑い声混じりに教授は語った。しかし、その目にはまんざらでもないという色が浮かんでいる。おそらく、謙遜しつつも心の中では自身の実力に対し確信しているのだろう。
「まあ、しかし、あなたほどには苦労ないかもしれませんな。そうだ、良かったら内容を私があなたの代わりに検討して、報告いたしましょうか。そうすれば、お忙しいあなたの負担も少しは減るというもの。どうです?最近ちゃんと睡眠もとっておられないのでしょう?」
「その申し出はありがたいのだけど・・・」
カテリーナは、躊躇ためらいがちに視線をさまよわせた。しかし、それも一瞬のこと。次の瞬間には、若き長官の目には決意の光が宿っている。そして、少しだけ申し訳なさそうに、彼女は自身の決定を告げた。
「でも、残念ですが、今回はお断りしますわ、教授。博士が、くれぐれも内容については内密にとおっしゃってますの。それを、職務怠慢で部下に押し付けるなど、国務聖省長官としての私の名が廃ります。」
「まあ、そうおっしゃらずに。なに、必ずや、秘密は守りますよ。それに、どうせすぐに出版されてしまうのでしょう?ならば、そう問題もありますまい。」
口では必死に弁解しつつも、教授は今やその書類を大切そうに手で抱え込んでしまっていた。その様は、まるでどうしてもほしい玩具を何が何でも買ってもらおうとして大事に放さない子どもに似ている。
「教授。」
カテリーナは、わがままな子どもを叱る母親のように、有無を言わさぬ口調で書類を懐から取り上げた。
「少しばかり、調子に乗りすぎていらっしゃいますよ。この件については、私が単独で行うべき事柄です。ご心配は、無用にしていただけないかしら。」
書類を剥奪され、教授はわがままの通らなかった子どものようにいっきにテンションを落とした。しかも、それだけでは飽き足らず、恨みがましく言葉を放つ。
「ふむ、それは何とも残念ですな。何が残念かと?よくぞ聞いてくださいました。それは、猊下がこの瞬間私の中で湧き出た知的探究心にご理解くださらなかったことです。我が所有の灰色の脳細胞が、この瞬間フル稼働で動き始めたというのに!おお、猊下はそれを無駄にしていらっしゃる!」
流れ落ちる滝のごとく、一人息もつかぬ語りを続ける教授に、とうとうカテリーナは額を抑えた。避難がましい口調になって、言葉を吐き出す。
「子どもじみた脅迫はおやめになってください、教授。それとも何ですか。そんな脅しにこの私が乗るとでも?」
カテリーナは、どこか挑戦的な目で教授を見た。それも、極上の上目使いで剃刀色の瞳を鋭く輝かせて、である。
国務聖省内でも、長官であるカテリーナの鬼上司ぶりは重々に知られている。彼女に最も近いとされる彼女の私兵AX達の間でさえも、彼女に逆らえばどんなひどい目に会うかはおどろおどろしく語り継がれている。それくらい、彼女は恐れられている存在なのだ。
そんな彼女が向けた極上の微笑みに、今まで一向に衰えることを知らなかった教授の声が一気にしぼんだのは、言うまでもなかった。
「いやいや、これは失礼。私としたことが、少々出すぎたことをしてしまいましたな・・・どうかお忘れ頂きたい。」
教授は、割れた風船のように細々と弁解した。そんな彼をどこか探るような目つきで見つめると、カテリーナはふと視線をそらした。そして、まるで今朝の朝食の話でもするかのように、気のない口調で言った。
「ところで教授。今日の午後からの講義はどうされまして?確か、これ以上無駄に休講を乱発すると大学側から苦情がとぼやいておられたように私、記憶しているのだけど?」
きれいに整えられた爪先を弄う彼女は、一見何にも興味を示さぬ退廃さを思わせた。しかし、マニキュアの出来具合をチェックする彼女の目が、全く別の方を向いて、しかも鋭く光っているのを教授は見逃さなかった。
「おお、そうでした!すっかり忘れておりました。ご忠告感謝いたします。では、早々ですが、私はこれで。」
「ええ。それではまた。」
軽い会釈と共に執務室を去っていった教授を、カテリーナは気のない口調で見送った。
しかし、彼の気配が完全にこの執務室から消えたことを確認すると、彼女の口から我知らずに溜息がこぼれおちた。
「はぁ・・・全く。いくつになっても、教授は変わりませんね。あの子ども並みの探求意識には困ったもの・・・。」
<教授、かなり渋っていらっしゃいましたわね。>
カテリーナのこぼした愚痴を聞きつけたのか、突如として彼女の座る執務机の正面に、年若いシスターのホログラムが浮かび上がって来た。おっとりとした顔に泣きぼくろが特徴的な女性である。
「ケイト・・・聞いていたのですか。」
<ええ。教授がカテリーナ様を困らせていらっしゃるのを聞きつけましたので。それにしても、教授ったら、年柄にもなくあんなに渋られて。>
ホログラムの主―シスターケイトは、子どものいたずらを叱る母親のように、腰に両手を当てた。彼女の前では、あの高名なワーズワースでさえ、幼い顔をして、今にも雷を落とされようとしている風になってしまうに違いない。
<困ったものですわね。よほどにこの資料が見たかったのでしょうか。>
「さあ、私にはこんな奇抜な内容のものはまったく分かりませんが・・・、しかし、あるいは教授ほどの学者なら、喉から手が出るほど貴重な書類なのかもしれませんね、これは。」
カテリーナは、まだほんのりと暖かい資料を一枚、片手でひょいと摘み上げた。生徒のレポートを採点する教師のように、うんざりとした表情で文字の連なりを見つめる。
「・・・それを、こんな私が見ているというのは、何とも皮肉だこと。こんなにも権力に汚れた私には、そんな資格などないというのに・・・」
<カテリーナさま・・・?>
どこか自嘲的に呟くカテリーナを、ケイトは心配そうな目で見つめた。それに気づくと、カテリーナは資料から目を上げた。
「・・・いいえ、なんでもありません。」
その表情には、既に先程までの皮肉めいた色はすっかり消えうせてしまっている。それでもなお心配そうにケイトは見つめたが、そんな彼女の思いをつき返すようにカテリーナは断言した。
「それよりケイト、ここにガンスリンガーを呼んできてもらえますか。」
<はあ、かまいませんけど、彼を導入する必要があるほどの任務なんて、残ってましたかしら?少なくとも、あたくしの記憶上には、そんな任務・・・>
しかし、ケイトの疑問を粉砕すべく、カテリーナは的確に言葉を続けた。
「ええ、たった今出来ました。とにかく、1、2時間の内には配置についてもらいます。少なくとも、大学の講義が終わるまでには。」






〜あとがき〜

また少しご無沙汰をしてしまいました。
お待ちいただいていた方がいらっしゃったならごめんなさい。慧仲です。
新作、灰色文献、ついに開幕です。
Axメンバーのドタバタギャグ・・・をめざしているつもりですが、現時点でその兆しがあるかと言えば・・・微妙なところ?
まあ、頑張れるところまで頑張ってみたいと思います;
ところで、今回少し原作のネタバレをしてしまいました。未読の方には大変申し訳ないです。
思いっきりシリアスな会話をした後に、ガクンと落ちる・・・そんな展開を狙った結果こうなってしまいました。
ちなみに、原作をご存知の方は、これで、この話が原作のどのあたりの時期にあたるかもうお分かりですよね?ね?

ところで、先日ついにトリブラのサーチエンジンに登録させていただきました。
店主様、ありがとう〜!メインでもないのに、こんなことさせてもらって嬉しい限りです。
これをきっかけに、トリブラのファンの方にも足を運んでいただけるなら、大変に光栄なのですが・・・(やや斜め目線;)

それでは、次こそは、あまり間をあけずにお会いできれば・・・嬉しく思っております。
それでは、失礼いたしました。