その夜、窓から流れ込んできた優しい歌は、夜明け手前の一時だが、穏やかな眠りをもたらしてくれた。

けれどテイトは、知っていた。
『ミスティ』という言葉は、ラグス王国の古語の一つ。

その意味は――――『忘却』。






 朝の廊下掃除も終わる頃。
仕上げに乾拭きをしながら、くぁっと欠伸を噛み殺したテイトを、同室のハクレンは見逃さなかった。
「テイト」
「…ん?なに?ハクレン」
「また、寝てないな?」
友人の鋭い指摘に、ギクリと身体を強張らせた。それに目敏く気付いたハクレンは、深く追求しようとテイトに詰め寄ろうとした。
だが、不幸にも掃除の時間は、鐘の音と共にたった今終了してしまった。
「あ、これで終わりだって。ハクレン!」
「こらっ、テイト!!」
肩にピンクのドラゴンを乗せたまま、テイトは片付けるためにバケツとモップを持って、素早く向こうへと行ってしまった。
都合の悪いことがあるときは、よくこうやって逃げる。嘘が下手だからだ。そんなテイトの性格を、最近ハクレンはわかるようになった。
「……何度も言うが、候補生は二人一組が基本だぞ」
またか、と一つため息をついて、ハクレンは彼の後をゆっくりと追いかけていった。

 一方、掃除道具を片付けたテイトは、中庭をのんびりと歩いていた。カストルによる試験対策用特別講義の時間まで、まだある。
「…逃げたのは、やっぱりマズかったよなぁ。ミカゲ」
「プルピャっ」
一緒にいる親友が返事を返す。零れ落ちる溜息をそのままに、テイトは側にあった長椅子に腰を下ろした。
顔をあげると、鐘楼塔が目に入った。
(…『ミスティ』か……)
テイトは、昨晩のことを思い出した。

「本当の名前は、忘れてしまったの。……と言っても、『ミスティ』も私の名前なのだけれど」
複雑な顔をしたテイトに、彼女―――ミスティは苦笑した。
「私、拾われっ子でね。『ミスティ』は何も覚えていない私に、団長がつけてくれた名前よ」
「へぇ。そうなんだ」
「昔の言葉の一つ、らしいわ。団長は、そういうの好きだったから。当時の私にピタリと合った言葉なんですって」
「じゃあ、本当の名前って、一座に入る前の名前のことなんだ」
「違うわ」
彼女は即答した。では何のことかと不思議そうに尋ねたテイトに、ミスティは内緒よ、と前置きをする。
「…『本当の名前』は、一座に入った後、新しくつけてもらったものなの」
「…………誰に?」
「大切な人よ。私がこの世で、何よりも一番愛したひと」
今となっては、それだけがその人とミスティを結ぶものなのだ、と。
それ以上は何も言わず、聖母のように柔らかな笑みを湛えたまま、彼女はテイトに答えた。

覚えていない、というもどかしさを、テイトはよく知っている。
そして、それが大切な人が関わっているものとなると、どれだけ苦しいのかも、知っている。
「『名前』…か」
自分の『テイト』という名は、果たして誰がつけてくれたのだろうか。今まで考えたこともなかった。
けれど、それに対する答えは、あいにく持ち合わせていない。彼もまた、記憶がないのだ。
「大事なものを忘れるって、辛いだろうな…」
「そうだろうね」
突然聞こえた声に、テイトは驚いて長椅子から落ちかけた。が、それは未遂に終わった。
「…ラ、ラブラドールさん;」
「ごめんね、テイト君。驚かせちゃって」
落ちそうな身体を支えながら申し訳なさそうに言われ、テイトは慌てて首を横に振る。まさか独り言に返事が来るとは思わなかったため、自分が慌てただけのことだ。
何故ここにいるのか、とテイトが聞くと、花の世話の途中で偶然見つけたのだと答えた。
「で、テイト君はどうしたの?悩み事?」
「え、と……自分のことではないんですけど…」
ちらりと目を向けると、ラブラドールは優しい微笑を返してくれる。無理強いはせず、待ってくれているようだ。
テイトは意を決して、相談してみることにした。
「あの、ですね。もし、の話なんですけど」
「うん?」
「大切なものを無くしてしまったら…どうしたら、いいんでしょう…」
「テイト君が?」
「いえっ。え、と…知り合いが、です…」
「そう。普通は…一人じゃ大変だから、って手伝うね」
「はい。けど、それが、形のないというか、目に見える物じゃなかったら?」
尋ねられた内容に、ラブラドールは、少しだけ思案するように目を伏せた。
「そうだね……目に見えなきゃ、他の人には探せないね」
「はい。実際その人も、気にはしていないようでした。とても諦めた顔で……けど、それを語る時、すごく優しい顔をするんです。何ていうか、柔らかくて、シスターみたいな」
「……もしかして、女の人?」
「ぅえっ?!え、あ、と…旅の、踊り子さん、らしくて。あっ、フラウには言わないでくださいね!」
からかわれるに決まってる、と顔を仄かに赤くして口を尖らせるテイトは口止めをした。ラブラドールも、テイトのそんな様子が可愛くて要求を呑むことにした。
「…それで、テイト君はその人の助けになりたいのかな?」
俯いてぎゅっと膝の上で手を握り、自分の思いを途切れ途切れに口に出す。
「……わかりません。だけど、思い出したいのに思い出せないものの思いは、わかるつもりです」

(…どうして、ラグスは滅ぼされなきゃいけなかったんだ?)

「それが、自分にとって大切な人の記憶なら、なおさらっ…」

(なんで、神父さま(ファーザー)が殺されなきゃ、いけなかったの?)

「だったら、答えは出てるよね」
顔をあげると、ラブラドールは慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。
「テイト君が、その人にとって一番いいと思う通りにすればいいんだよ」
「オレの…思う通りに?」
「そう。今の君は司教候補生で、やらなきゃいけないことがたくさんあって、大変だと思う。だけど、誰かを助けたいと思う心を無視することはないんだよ」
その言葉は、素直にテイトの心に入り込んだ。少し晴れ晴れとした気もする。
「だけど、カストルとの勉強の時間も、できれば大切にしてあげてね。結構楽しみにしてるみたいなんだ」
「はいっ。もちろんです。ただでさえ貴重なお時間を割いてもらってるんですから」
ちょっとだけ笑い合っていると、向こうからハクレンが近付いてくるのが見えた。ラブラドールの姿を認め、軽く会釈をする。
「ラブラドールさん、ありがとうございました。オレ、がんばってみますっ」
決意に満ちた瞳を見返し、ラブラドールはがんばってね、と応えた。
そして、テイトはハクレンの方に駆け寄った。今日も仲のよさそうな2人は、あっという間に教会の方へと消えていく。
「……けど、何か嫌な予感が、する」
去って行くテイトとハクレンの後姿を見送りながら、ラブラドールは顔を曇らせた。

―――夜。
カストルとの修行を終え、寝ているハクレンを起こさぬよう部屋を出たテイトは、鐘楼塔へと静かに歩いていった。
廊下はシンと静まり返り、石畳は冷たい感触を足裏に伝えてくる。
昨日の通りの道を進み、扉を開き、ゆっくりと屋根の上へとあがった。
そして、そこに佇む彼女を見つけた。
「子供は寝る時間よ?」
「何だか、眠れなくて…」
答えたテイトに、ミスティは、いけない子ね、とそっけなく返した。どことなく、昨日とは冷たい感じがして、テイトは違和感を覚えた。
「今日も、門限に遅れたの?」
「…ここが気に入ったのよ」
そういって、ミスティは眼下の景色を指した。屋根の上から見下ろすと、街全体が闇に包まれた錯覚を覚える。しかし、深い闇は、静けさがどこか懐かしく、暖かくすら感じられた。
しばらく2人でそうやっていると、突然テイトがぽつりと話し出した。
「オレも、記憶がないんだ」
「…え?」
「幼い頃の、とても大切だった人たちとの記憶。いくら探しても、どうしても思い出せない。断片だけはあるのに……忘れた自分が、もどかしくて、泣きそうになる…」
目を閉じて思い浮かぶのは、《ミカエルの瞳》を託した父さん、優しかった神父さま(ファーザー)
そして、自分を染め上げる夥しいほどの、赤、赤、赤……。
その断片が示すものは、何か。過去に一体何があったのか。
残念ながら、自分は未だ真実を見つけ出してはしないけど…。
「だから、手伝わせて欲しい。『忘却(ミスティ)』じゃなくて、『本当の名前』を探すことを」
人を疑うことのない、素直で、白く、真っ直ぐな瞳。
その強さが眩しくて、ミスティは思わず視線を逸らせた。
「でも、あなたが私に力を貸してくれる、理由がないわ」
「正直言って、オレもよくわからない。だけど、大事なものを失くした気持ちはわかるつもりだし、目の前で困ってる人を放っておくのもどうかと思うしね」
どうしてもっていうなら、あなたの唄が気に入ったから、ってことにしておいてよ――。
(あぁ……『   』にとても似てる……)
ミスティはその時、優しく笑うテイトの顔が、思い出の誰かにとても似ているような気がした。
……だから、かもしれない。テイトの申し出を、受け取ることにした。
「ありがとう。テイトくん」
そう言って俯いたミスティの顔は、泣いているようにも……はたまた、笑っているようにも、見えた。


そうして、その日からテイト=クラインが、勉強以外でも図書室に熱心に通う姿が見られるようになった。

だが、時を同じくして……密かに一つの幽霊の噂が、教会内に広がっていた。






〜あとがき〜
うわぁ…お待たせしました;長編第3話。いつの間にか原作は4巻まで出てますが、これは一応2巻と3巻の間くらいです。多分…;
突っ込みどころとしては、フラウいないじゃん、とか(前回も聞いた)、恋愛要素(?)はどこ行った、とか。
次こそは、フラウとカストルさんを登場させたいですっ。