ただ『会いたい』と―――
その何物にも変えがたい、切なる思いは、ガラスの鐘のように澄み切った、旋律となった。






 月が高く昇る頃。
それは、教会において、誰もが眠りについているはずの時間である。
だが、テイトは一人、眠れないでいた。
「………眠れない」
ぽつりと呟いたその言葉に返してくれる存在など、今は到底望めなかった。
何しろ隣のベッドでは、戦友のハクレン=オークが健やかに眠っている。親友のミカゲ(今はチビのドラゴン)も今日はあっちがいいのか、ハクレンのとなりで、ピャっ、と寝息を立てていた。
テイトにとって、眠らないことなど別にどうってことはない。軍にいた頃は、不眠不休での実践もあった。
だが、今は違う。眠らなければ、明日もある司教候補生としての仕事や、試験のスパルタ特訓に耐えていけない。

今や、【眠らない】と【眠れない】ことは、大きく違っていた。

窓辺に肘をついて、夜空を見上げる。
銀色の月が輝いている。風もなく、穏やかでいい夜だ。今頃、あの黒衣の死神は、外で使い魔(コール)退治でもしているのだろうか……。
と、そこまで考えて、テイトははたと気が付いた。
「って、オレ何フラウのこと考えてんだかっ」
昼間見た紫の瞳が、瞼の裏に浮かんでくる。次いで、太陽のような金髪、支えてくれた逞しい腕、心地よいほど甘く低い声……。
そんなことばかりが浮かんできて、テイトの心臓は鼓動を増々高鳴らせた。顔はトマトのように真っ赤である。
(……オレ、本当にどうしちゃったんだろ…)
最近の自分は、変だ。しかもフラウに対してだけ。腕の間に顔を埋めて、そんなことを思った。


しばらくじっとしていて、テイトはふと、音が聞こえた気がして、顔をあげた。
そっと、耳を澄ます。かすかに聞こえてくるそれは、『歌』のようだ。
「………こんな時間に、誰だろう?」
最初はラゼットかと思った。しかし、彼女の歌は、こんな感じではなく、聞いていて清廉な印象を持つものだ。
今聞こえてくるものは、ひたすら狂おしく、胸が痛くなるほど切ない感じを受ける。けれど、どこか懐かしく、惹かれる。
 気になったテイトは、上着を引っ張り出して、服の上から羽織った。
そして、ベッドから降りると、眠っている2人を起こさないよう、静かに部屋を出て行った。



 教会の廊下は、寒かった。ひんやりとした夜気が、肌を刺す。
誰かを起こしたりしないよう、テイトは慎重に廊下を歩いた。
歌は、まだ続いている。聞こえてくる方向を確かめれば、どうやらそれは上の方であるらしかった。
時折、立ち止まって、音を辿る。随分上に来た今でも、まだ上の方。
(もしかして、屋根の上?)
来たばかりの頃見つけた秘密の通路へ入り、石畳の上を歩き、鐘楼へと続く一見壁にしか見えない扉を開く。
そこから、屋根に出ると、…………はたして、その歌は、そこから聞こえていた。


回る度に、ひらりと何重もの紗のヴェールが舞い上がる。
鈴が転がるような、美しい歌声。
足の先から指先まで、その動きはとても優雅でしなやか。
重力を感じさせないほど、軽やかな動き。

言うなれば、天上の『舞姫』。
教会の屋根の上は、ただその人のための舞台と化していた。


テイトは、その美しい舞に、歌に、心を奪われた。
何と悲しく、何と綺麗なのだろう。どこか、失くしたはずの昔の記憶を呼び覚ましてくれそうだとも思った。
けれど、見ているこちらの胸が、苦しい。それは、『彼』に対して時々感じる、心の痛みにとても似ている。
テイトの視線に気が付いたのか、舞姫は、歌と舞を止めて、こちらを見た。
ピンク色の瞳が、大きく見開く。次に、不思議そうに首を傾げた。
「どうして、泣いているの?」
そこでようやく、テイトは自分の頬を伝う雫に、気がついた。
「わから、ない……悲しくて、苦しくて……」
でも、懐かしさを感じてしまう。
涙の止まらないテイトに、舞姫は白いハンカチで、そっと彼の涙を拭ってくれた。


「ご、ごめんなさい……」
「いいのよ。気にしないで」
ようやく涙の止まったテイトは、開口一番、罰の悪そうな顔をした。
「でも、私の舞を見て、泣いた人って、久しぶりに見たわ」
「そうなの?」
「えぇ。あなたで2人目よ」
彼女はとても嬉しそうに話した。そう話せば、私の感情を受け取ってくれたからだ、と返した。
「見る人みんな、綺麗って言ってくれるけど。歌や舞に込めた思いなんて、誰も見てくれないもの」
「ふぅん。で、お姉さんは、何でここにいるの?もしかして、門限に間に合わなかった?」
「まぁ、そんなところ。けど、退屈だったから、屋根の上に登ってみたくなって」
「へ、へぇ……」
曖昧に返事をして、テイトは隣に座った彼女を見た。
ガラスのようなピンク色の瞳に、透き通るような白い肌。緩くウェーブのかかった亜麻色の髪は一部を結い上げ、朱金の簪を挿している。
纏うのは、何重もの紗をふんだんに使った踊り子のもので、色とりどりのそれは大変鮮やかであり、更にスレンダーな身体の線がよくわかって、魅力的である。
だが、寒くないのだろうか、とか、ヒマだから屋根の上に登る、とは何とも変った、不思議な人だとテイトは口に出さずに思った。だが、それは彼女にはお見通しであったらしい。軽く睨んできたので、テイトは肩を竦めた。
「そんなことより、君。眠らなくていいの?教会の朝って、早いんでしょう?」
「うん……けど、眠れなくて」
「それで、ここに?」
頷けば、君も同じじゃない、と返された。全くその通りである。
気を取り直して、テイトは聞きたいことを尋ねた。
「お姉さんは、旅の人?」
「えぇ。そうよ。一座で舞姫を務めているの」
「だからあんなに上手なんだぁ」
素直に賞賛の目を向けたテイトに、彼女は微笑んだ。
「ねぇ。あの歌、何て言うの?」
「さっきの?あれは私のオリジナル」
「え、そうなんだ…」
「なに?あの歌がどうかした?そういえば、懐かしいって言ってたわね」
納得のいかない顔をするテイトに、彼女は優しく問いかける。
「……昔の、記憶がないんだ。5歳くらいまで、どうしていたのか。全くわからないんだ」
「…そうだったの」
「けど、お姉さんの歌は、何だか懐かしい気がするんだ。どこかで聞いたことのある、そんな感じ…」
先程感じた感傷の波が、再び胸に押し寄せてくる。子供の頃読んだ本を見つけたような、暖かく優しい気持ち。
そう話すテイトを見て、彼女はしばらくしてから、歌のことを語ることにした。
「あの歌はね、ラグス王国の古い唄をアレンジしたものなの」
ラグス王国、という言葉に、テイトはドキリとした。けれど、彼女はそれに気付かず、話を続ける。
「ある方から教えてもらった、大切な唄よ」
「…な、何ていう唄?」
恋々唄(れんれんか)。亡国の姫と敵国の王子の恋物語を綴った、忘れられた唄、よ」
「忘れられた…?」
「そう。元の歌は、今はもう、きっと誰も知らないわ」
教えてもらうまでは、彼女も知らなかったのだと、彼女は言う。
まだ質問をしようとしたテイトだが、そこでくしゅっ、と一つくしゃみをした。
「あら。ごめんなさい。長いことここに留めてしまったわね」
「え、大丈夫ですっ。オレ……」
「風邪でも引いたら、大変だわ。もう戻りなさい」
「………お姉さんは?」
「私はもう少し。そうねぇ……あなたが眠れるように、ここで子守唄を歌ってあげる」
だからお帰りなさい、と優しく笑いかけられ、テイトは頷くしかなかった。
仕方なく、おやすみなさい、と声をかけて、また来た道を戻る。
「ねぇ。最後に一つ、いいかしら?」
呼び掛けに、くるりとテイトは振り返った。
「あなたの、お名前は?」
「……テイト。お姉さんは?」
「そうねぇ。《ミスティ》とでも呼んでちょうだい」
本当の名前は、忘れてしまったの―――

そう言った彼女の横顔は。
今にも泣き出しそうな、儚い微笑みであった。






〜あとがき〜
えー、と2つ目です。フラウでてこないじゃん、無茶な設定、とかいうツッコミはさておいて;
オリキャラの登場ですが、ゲストさんです。一応、今回の話の要ともいう人です。
謎明かしは、おいおいしていこうと思います。