(え……と、『神魔伝承大全』ってどこだ……?)
バルスブルグ大教会の図書室で、テイト=クラインは、ルームメイトが読みたいと言った本を探していた。
先程、司書の人に聞けば、「この辺りかな?」と言われ、やってきたのは奥の書架。周りには人一人見当たらない。そんな場所で、側の梯子を最大限に伸ばし、天辺まで伝って行く。司書の話では、読む人がいないとのことで、こんな辺境に送られたようだ。
テイトがずらりと並ぶ本の中から、目的の物を見つけたのは、運が良いことに、探し始めて約10分後。だが、問題はそこからだった。
(わぁ、分厚い。おまけに………て、手が、届かない……っ)
本があるのは、棚の最上段。梯子の一番上に立つ彼の手は、その段に手が引っかかる程度。懸命に背伸びし、もがくが、やや届かない。
そうしていると、ふと、カシャンと音がした。見れば、いつの間にか隣にシスター服を着た人形が棚に張り付いていた。
「っ?!……って、カストルさんの人形か」
一瞬無表情のそれに驚くが、人形だとわかるとテイトは落ち着きを取り戻した。すると、人形がテイトの取りたい本を取ってくれた。手が届かないことを見かねたらしい。
最近慣れた人形を見て、テイトは本を受け取り、ありがとう、と微笑んだ。
「本も手に入ったし。そろそろ降りるか」
人形が去った後、テイトは満足げに呟いて、今度は梯子をゆっくり降り始めた。何しろ棚の高さは5mは確実にある。落ちれば頭を打つだけじゃすまないだろう。
しかし、少し降りたところで。テイトの目に、一冊の本が入った。
「………ん?」
何も書かれていない、真っ白な背表紙。周りの本たちに埋もれて、普段なら気にも留められない筈のそれだが、今テイトの目に映るそれは、異彩を放っていた。
(何だろ……惹かれる。懐かしい……)
ふらりと手を伸ばし、そっと背表紙を一撫でする。しっとりと手に馴染む感触に、思いもかけず本を手に取ろうとした。
その時―――
「おい、クソガキ!」
「…うぉわっ?!」
突然下から呼びかけられ、テイトは驚きのあまりバランスを崩した。
梯子から手が離れ、身体が空中に投げ出される。ふわり、とした一瞬の浮遊感の後、急激な落下が襲ってきた。床に打ちつけられる衝撃を予想し、テイトはその恐怖に目を瞑った。
ドサっと鈍い音が、大きく響く。
しかし、予想していた衝撃よりも、それは遥かに軽いものだった。驚いて目を開けると、純白の衣がまず飛び込んできた。
「………な、ナイスキャッチだったな……」
続いて聞こえてきたのは、低くて魅惑的な声。その主をテイトはよく知っていた。
「…………フラウ?」
「あぁ。大丈夫か?」
近づいて覗き込んでくる紫水晶の瞳に、テイトはドキリと胸を高鳴らせながらも、頷き返す。どうやら彼が落ちたテイトを受け止めてくれたようだ。
その彼の方は、落ちたこともあってまだ心臓をバクバクさせているテイトを見て、にやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「それにしても、お前、高いところから落ちるの好きだな。しかも、俺の上に」
「……っ!!た、偶々だ!だ……大体、今オレが落ちたのって、フラウがいきなり声かけてきたのが悪いんだろっ」
思いもかけないフラウの言葉に、テイトは顔を赤くして怒鳴った。しかしここが図書室であることを思い、途中から一応声を押さえる。そして、フラウにそのまま小声で何の用だ、と尋ねた。その際に、フラウの腕の中から無理矢理抜け出すことも忘れない。
「ラブがお前と、後でお茶したいって伝えてくれってさ」
「それ言うためだけに来たのか?」
「いや。それはついで。本命は、あの本取りに来たら、お前がいたからついでに取ってもらおうと思ってな」
そしたら落ちてくるし、とフラウは少しからかうように笑った。テイトは思わずムッと顔をしかめる。
「オレだって、好きで落ちたかったわけじゃねえよ」
「ンな物好きいたら、その面拝んでみてーな」
「いや、普通いないし。ってか、その本ってやっぱエロ本だろっ」
「おー。よくわかったな。貸してやろうか?」
「いらんっ!!」
勢いよく言い放って、テイトはそこから離れることにした。第一、これ以上ハクレンを部屋に待たせては悪い。
ところが、去ろうとするテイトを、フラウが呼び止めた。
「あ、クソガキ。本いいのか?」
「は?どの本?」
「あの辺りのやつ。落ちる直前まで見てただろ?」
テイトは首を傾げた。指された辺りには、あの本があったはずだが、既に気にはならなかった。
「………あぁ、うん。別に。ちょっと気になっただけだから」
曖昧な返事を残すと、テイトは本を抱え、その場を後にした。
「…まさか、落ちるとは思わなかったな」
1人残されたフラウは、先程まで黒髪の少年を抱えていた自分の腕を見た。
かすかに子供特有の体温が残っている気がする。ふと、その暖かさと、落下の恐怖に滲んだ涙で潤んでいた翡翠の瞳を思い出した。思わず顔をほのかに赤らめる。
「しっかし、アレは反則だと思うぞ」
「何が反則なんですか?」
静かな呟きに対して突如返された声に、フラウは驚きの余り勢いよく振り向く。そこには眼鏡をかけた、一見穏やかそうな同僚が立っていた。隣には彼ご自慢のシスター人形が控えている。
「か、カストル……何してんだ?」
「テイト君が高い所に上っていたと聞いたので、無事に降りられたかどうか、確かめに来たんですが。そういうあなたは何してるんです?しかもその手に持ってるのは、またあれでしょう?」
「悪かったなっ。あいつなら無事に降りて、さっき行ったぜ」
「そうですか。それならいいんです。で、何が反則なんですか?」
さりげなく話を逸らしたはずなのに、また戻ってきてしまい、フラウは言葉に詰まった。さすがに、さっきのテイトの顔が可愛くてキスしたいと思った、などと言えば、テイトを可愛がっているこの腹黒い同僚ともう一人に、殺されかけない。
(しかも、理由が『悪い芽は早めに摘んでおくに限りますから』とか言うんだぜ。きっと)
彼らの性格をよく知っているフラウにしてみれば、そんなことにはなりたくない。いや、絶対に嫌だ。
「フラウ。テイト君、食べちゃ駄目ですよ?」
テイトが来て最初に、カストルから言われた言葉。それを、カストルはこの場でもう一度言った。
「………誰が、食うか。あんなガキ…」
前と同じ返事。しかし、何だか自分の心情を見透かされたようで、フラウは少しだけ返事を返すのが遅くなってしまった。
(そう、思ってたんだがな……)
未だ残る、テイトを抱きかかえた感触を思い、フラウは、そっと腕を口元に引き寄せた。
『……あぁ。やっと、見つけた…』
触れた気に《彼》の気配を感じ、眠りから覚めた『それ』はうっすらと微笑んだ。
長かった。あれからどれだけ待ったのだろう。
『…会いたい。《 》に、今すぐ、会いたい…』
会って、貴方の『言葉』を聞かせて―――
暗闇の片隅で、『それ』は囁く。
そして、その夜。
一つの影が、教会内を彷徨い始めた。