いきなり、こんな薄暗い路地裏に飛び込んできたのだ。どのように間違われたとしても、仕方のない状況であった。
にもかかわらず、この長身の紳士の対応は、いたってそれらしき(・・・・・)ものだった。
まず男は、すぐにその場を去ったりはしなかった。おそらく、泣きじゃくる彼女を無碍にもおいてゆくことはできなかったのだろう。
そして、彼女の興奮が収まるのを待って、彼女を近くのカフェテラスへと誘ったのである。
普段、家計上の都合から外食などという贅沢を慎んできた彼女にとって、ただでさえその場所は、なじみの薄いものだった。
しかし、さらに悪いことに、男が誘ったのは、彼女なら確実に足を踏み入れることなど出来そうにない、「高級な(・・・)」店であった。

「すっすみません。こちらがご迷惑をかけたというのに、許してくださるどころか、こんなことまでしていただいて・・・」
彼女が恐縮しきった口調で侘びを述べると、男はとんでもないという風な口調で答えた。
「いえいえ。これも紳士として当然の努めですよ。どうですか、気分は落ち着きましたか。」
男は、いささか抑揚には欠けるものの、穏やかの口調で彼女への配慮を口にした。
世の末なんていうけど、まだまだ捨てたもんじゃない。
まったく、親切な人もいるものである。・・・もっとも、これが何かのタチの悪い勧誘でもなければ、だが。
しかし、彼女にそんなことを考える余裕は残されていなかった。
彼女は、ただただ男の言葉に目を丸くした。
「ええ、おかげ様で。今ではすっかり落ち着きました。あの時は、本当にお恥ずかしいところをお見せしました・・・」
無理にでもからりと笑ったあとに、ベアトゥリスはすまなさそうに頭を下げた。
「本当にご迷惑をおかけしてすみません。あの、お代くらいなら、せめて私に出させてくださいね。それくらいはさせていただかないと、悪いですから・・・」
実際、その言葉を口にするのに、彼女は多大な勇気を必要とした。
ただでさえ、勢いで飛び出してきた彼女である。たいした金など、持ち出しては来なかったはずだ。
その上に、もともと火の車の家計である。それに拍車をかけるわけにはいかない。
しかし、シスターの端くれである彼女なら、恩寵を受けたまま平然としておくことの方が、さらにためらわれたようであった。
(か、かばんの底を丹念に調べれば、きっと、飲み物代くらい・・・・)
もっとも、男も前でそんなはしたないことは出来まい。それをするには、どこかで隙を狙うしかなかったわけだが。
「いえいえ。どうか頭をお上げになってください。それに、あなたが心配なさることはありませんよ。もともと、この場所へあなたを誘ったのは私なのですから。」
しかし、男はさしたる表情も変えぬまま、平然とそう言ってのけた。どうやら、よほどに懐に自信があるらしい。
「しっしかし、恩を受けたままでは、私・・・・」
「実は、私は、このバルセロナへは仕事の視察で伺っておりまして。」
彼女の言葉を強引に切るようにして、男は唐突に自分の身の上話を始めた。
「この土地には、少し詳しくなっておこうと思っていたところなのです。しかし、いざやってきてみたものの、今のところ目立った収穫はない。その上、依頼主も不在でしてね。」
「依頼主・・・探偵さんでも、してらっしゃるんですの?」
いえ(ナイン)。私は、劇団で働いているだけですよ。今度、このバルセロナでひと演目やることになっているのです。」
「へえ。それでは、劇団員の方でいらっしゃるんですか。ということは、お役者さん?」
ベアトゥリスは、目を輝かせて問い掛けた。
実際、普段から切り詰めた生活をしている彼女にとって、演劇などという娯楽は縁遠いものに過ぎなかった。それでも、まったく興味がなかったわけではない。むしろ、金銭的余裕さえあれば、一度は見てみたいと思っていた代物ではある。
「いえいえ、とんでもない。私などは裏方役ですよ。それも、地方の劇団の大道具係です。」
「へえ・・・」
今度は、彼女はあいまいに頷いた。 ・・・正直なところ、着こなされたスーツ、それに、訛りもなく品のよい言葉遣いからして、とても単なる大道具係―しかも、地方の劇団の―には見えなかった。それくらい、演劇とはほぼ無縁の彼女にでもすぐにわかる。
しかし彼女は、この不思議な男の素性を正面から疑うような無礼を、犯そうとは思わなかった。代わりに、彼女はただ、言葉同様に、曖昧に微笑んだだけだ。
だが、彼女の顔に一瞬でも表れた訝しげな表情を、男は決して見逃さなかった。男は滑るような口調で、「注釈」を口にしていた。
「如何せん団員も機材も不足しておりましてね。まだまだ表舞台に上るには遠いですよ。あなたがご存じないのも無理はありません。」
「あっ、いえ、私は決してそんなつもりじゃ・・・」
慌てて彼女がわたわたと手を振ると、わずかに男の口元が微笑んだ気がした。
「しかし、その今回は幸運なことに脚本を任されましてね。」
「え、ええっ!?それは凄いですね!では、ここへはその下見で?」
「はい。ここは、描こうとしている脚本の舞台にも似ている。下調べをするにちょうどよいと思いましたので。」
「どんなお芝居ですの?よかったらぜひ教えて下さい。」
聞いてしまってから、はっとした。調子に乗りすぎだ。いくら相手が友好的だとはいえ、初対面には変わりないというのに。
しかし、彼女の問いに対して、男の顔に不快な表情は一切浮かばなかった。―いや、あるいは意図的にそうしたのかもしれないが―男は、好意的な口調で答えた。
「ええ、構いませんよ。今回の劇は、ある一つの巨大な国の繁栄と滅亡を描こうと思っているのです。その国は、領土こそ決して広くないものの、豊かな土地と国民に恵まれ、繁栄を続けていた。しかし、隣国には、志を異にする二つの大国に挟まれている。そして両者とも、隙あらばその国を我が手中に収めんと画策しています。」
「それはまた、壮大な話ですね。それで?」
「ああ、すみません。別に出し惜しみというわけではないのですが、実際のところ、これ以上のシナリオはまだ決まっていないのですよ。」
「あっ、そうなんですか・・・無理言ってすみません。」
「いえいえ。こちらこそ、ご期待に沿えず申し訳ありません。」
今しも語られようとしていたストーリーに胸をときめかせていた彼女は、予期せぬ中断に落胆を隠し得なかった。
そんな彼女のことを不憫に思ったのか。紳士的な男は、言葉を失ってしまった彼女に、穏やかな口調で告げた。
「それでは、もしあなたさえよろしければ、お知恵を拝借してもよろしいですか?」
「え?!そ、そんな!私のような素人じゃ、ほんとに、話になりませんよ!」
「ええ、構いませんよ。むしろ、こういったことに関しては、私たちよりあなた方観客の方が、かえってよい発想が湧くというものです。」
男は、したり顔で頷くと、少し戸惑った様子の彼女を促した。
なんと言っても、演劇なんてほとんどお目にかけたことのない彼女だ。自身で言うように、ストーリーだって、どういうものがいいのかまるで分かりもしないド素人である。しかし、この男が勧めるのを見ると、なぜか彼女は断れなってしまった。
「でっでは、そうおっしゃるのなら・・・」