『どう…し、て?』
『何故、と問うか。こんな下種な輩、生かす価値もないだろうに』
転がる物言わぬ固まりを見下し、吐き捨てる。雨が赤い水を飲み込み、土へと吸い込まれていく様を、少年はじっと見つめていた。
『それでも。いのちは、ひとつしかないんだろ?』
『興味はないな。人間など、掃き捨てる程いる。自分の気に入る一つの命が消えたことに対し、代償を求めても文句は言えまい』
小さな白い亡骸を一つ抱きしめたまま、少年はきゅっと唇を噛んだ。少年の守護者は何も言わない。
『先程の問いの答えがまだだったな。余の傍に、影の世界に来ぬか?』
長い指を少年へと差し出す。手を取る気配はない。
ややあって、少年は一つの決断を下した。
『やっぱり、ぼくはシンにはなれないよ』
『…そうか。そなたと在れば、退屈しないと思ったのだがな』
俯く少年の髪に手を伸ばしかけ、触れてしまう前に引いた。少年に、自らの手を染める血をつけたくなかったからだ。
『次に会う時は、敵かもしれぬな』
だからそれ以上は何も言わず、元の世界への扉を開き、帰ることにした。
扉をくぐり終える瞬間、泣きそうな叫び声が耳に届いた。
『っそれでもあいたいよ、 …!!』
驚いて振り向くよりも早く、少年は闇の壁の向こう側へと消えていた。
不意に、ぱちりと目が覚めた。
「いつ見ても、嫌な夢だ…」
じとりと汗ばむ自分の掌を見下ろす。
あれ以来、その時の夢を見ることは何度かあった。だが、ここまで頻繁に、かつ鮮明に見るようになったのは、最近のことだ。
気紛れで、己が殺したはずの者を見に行った時以来だ。
シンにならないと言った少年は、もう1人の王の元でシンとなっていた。
あの時と面影はそのままに、色彩は守護者と同じ色を纏い、そして……昔のことは完全に忘れていた。
大方の予想はつく。恐らく、あの守護者が記憶をすべて封じたのだろう。自らの存在を賭して。でなければ、かの守護者があの子供の傍にいないはずがないのだ。
しかし、少年の姿を思えば思うほど、衝動は酷くなるばかりだ。
この手にもう一度、あの温もりを欲してしまいそうになる。
今、あの少年は他の誰かのものだというのに。
――あの時、手を離すことを許したのは、他ならぬ自分だと言うのに。
そこまで考えて、自嘲の笑みを漏らした。
ここまで自分を掻き回す存在であるのに、それが心地よいと感じる自分がいることに気がついたのだ。
「やはり、あの時強引にでも闇に引きずり込めば良かったのかもしれぬな」
あの真っ直ぐな瞳が、心を休ませる温もりが欲しい。
守護者の面影を追い求める輩の元から奪い去り、鳥篭へ閉じ込め、一生傍に繋ぎとめる。
繋ぐための鎖は真綿で。閉じ込めるための篭は砂糖菓子のように甘く。
ならば、そのための手段は一つだ。
《今》を壊し、もう一度すべてを取り戻させる。
「あの時の言葉、信じるぞ。アキ」
クツリと嗤うと、紅の王――焔緋は愛し子を迎えるため、闇の中へとその姿を消した。
カゴの鳥
闇に浮かぶ、鮮やかな緋色の炎。
見たことのないはずのそれが、幼い時からどうしようもなく好きだった――それは恐らく、今も。
何をどうしたらそんなことになったのか。
モノトーンの市松模様の床。闇が取り囲む静かな世界。そこに、オレはいた。
―――裏側の、影の世界。
来たことなど一度もないのに、かすかに見覚えがある。これは誰の記憶だろうか。
いやそんなことはわかっている。『劉黒』の記憶だ。
オレが因子を継いだという、光人の黒き王。死してなお誰もが求める、美しい存在。
「そう。奴らに必要なのは劉黒であって、そなたではない」
自分のものではない低い声が、耳元で囁いた。
驚いてばっと振り向く。背後にいたのは、目下の敵である血塗れの王だった。
「ここは、夢であって、夢でない場所。いるのは、余とそなたのみ。少しばかり、2人きりで話したかったのでな」
「…なんの、ために?」
「何のために?それを、他ならぬそなたが言うか」
身構えるオレに、王は嗤う。それから、可哀想に、と言った。
(かわいそう?誰が、だ?)
「昶、そなただ。仮面を被り、己を強く見せるしか自分を守る術を知らない、愛に飢えた哀れな子供」
まるで心を読んだかのような、的を得た答え。
びくり、と体が震える。違うと否定してみるが、弱々しい声しか出てこない。唇が、妙に乾く。
「誰も、そなたを見ようとしない。違うか?近づくものは、そなたの容姿に惑わされたものばかり。実の両親すらも、そなたを見捨て在ることを気にも留めないではないか」
違わない、と思う。昔から容姿に目をつけられて、嫌な思いばかりしている。両親の方も、小学校に上がる頃には共働きで忙しくて、家にいることすら稀だ。ここ数年は帰ってくるどころか、電話すらない。
帰っても光のない、誰もいない家。1人で食べる、温もりの感じられないご飯。どれだけ触っても、温もりのないベッド。
両親がいて、お帰りと出迎えてくれる、そんな光景を、オレは知らない。
(いや、違う。昔は、そんなことはなかった…はず)
しかし追い討ちをかけるように、王は言葉を紡いでいく。
「では、聞こう。本当に白銀は、『そなた』を愛している、と思うのか?」
心のどこかで、ぱりん、と欠けた音が聞こえた。
「思ったことはないか?白銀の目はまるで、そなたの向こうに劉黒を見ているようだ、と」
反論の言葉は、出て来なかった。
何故なら、オレ自身が、強くそう感じていたから。
白銀の劉黒に対する感情は並のものではないし、執着も尋常ではない。オレが劉黒の因子を継ぐものでなければ、会うことはおろか、その辺の石のように見向きもしなかったに違いない、と思う。何しろ出会った頃に一度、劉黒とは別人なくらいあまりにも弱すぎる、といった風な言葉を聞いたことがあるから。
最初からそうだった。白銀はいつも、真実を隠している。肝心なことを言わないで、オレが早く覚醒し劉黒としての全てを思い出すことを常に願っていることなど百も承知だ。
だから時折思わずにはいられない。
戯れにしかけてくるキスも、たまに見せる優しい態度も…『愛している』の言葉すらも、すべては己の内に眠る彼にであって、オレにではないのではないか、と。
震えが止まらない。寒気がする。
王はますます楽しいばかりに口元に弧を描き、オレの耳元に唇を寄せた。
「洸とて同じ。奴の主は劉黒。死の際にあった主を見捨てて逃げたことが、奴の心に深い後悔を残していたからこそ、その償いにそなたの側にいるだけにすぎない」
そんなことはない、とは言い切れない。その話は少し前にある一件があって、ちょうど思い出したことだからだ。
彼は劉黒の「子」。親だけを愛し、親の転生した自分に言われたからこそ、ここにいる。
また一片、ぱりん、と割れた音がした。
だが、希望はまだ残っている。
「…け、賢吾と綾は……」
「確かにただの人間は劉黒を知らない。けれど、人間は自分を守ることを何より優先する。己の理想を求め、そなたに演じろと押しつける。言い切れるか?どんなそなたも必要としている、と」
――強さを求め、弱さはいらぬと言われたことはないか?
からん、と空洞に仮面が落ちる、音がした。
それ以上は聞きたくない、と耳を塞ぎ、瞳をキツク閉じて、俯く。
それでも、王の言葉は水のように心に染み込み、頭の中へ直接響く。
「世界の中に『昶』はいるのに、誰もそなたを必要としない。いなくても、世界は同じ方向へと進むのではないかと、思ったことはないか?」
王が言ったことは、心の奥底でオレが不安に思っていたことそのもの。
けれど、誰にも聞けなかった。
いや、聞ける人は確かにいたはずなのに、まるでその位置には誰もいなかったかのように空白なのだ。
だから余計、言葉にすればそれが現実だと認める気がして、怖かった。今、それが目の前に突きつけられている。
震えが止まらない。目の前が段々暗くなり、体が凍りつくように冷たくなっていく。
「余が、そなたを助けてやろう」
一変した優しい響きに、オレは思わず顔をあげた。
いま、彼はなんと言ったのだろうか。
「わからぬか?そなたの心は、すでに悲鳴を上げているというのに」
それとも麻痺してわからぬか――。紅の王は黄金の瞳を悲しげに細めた。
だまされては、だめだ。彼はオレたちの敵で、劉黒を殺したやつで、世界を滅ぼそうとしている、張本人で。
「余をそなたの敵だと、誰が言った?それを信じられるほど、白銀の言葉は信用できるものか?そなたを愛していると言いながら、劉黒を見るのに?」
(……あぁ、そうだった。アイツはウソツキだったっけ)
何度も自分で思ったのに、どうして何もかも信じられる気でいたんだろう。
けれど、彼を信じられないのならば、オレは誰を信じればいいんだろうか。
王は戸惑うオレに、愛おしげに、壊れ物を扱うように、長い指をオレの頬に滑らせる。
その間隔は、どこか懐かしいものでもあった。
「あまりにも世界は毒に満ちている。このままでは、そなたはいずれ壊れてしまうだろう。それはあまりにも悲しいことだ」
「ど、して、そこまで…」
「何故であろうな。気付けば、愛おしく想っていた。手放した後も、想いだけは積もるばかりでな」
黄金の目を伏せ、冷たくなったオレの指先に口づける。それだけで、温もりが戻ってくる。
「余の側に来い、昶。劉黒ではなく、弱さも苦しみも秘めた、そなたが欲しい」
それは、傷ついた心に染み込む蜂蜜のように甘美な誘惑。でもそれに頷いてしまえば最後。麻薬と同じで、決して戻ることはできない。
だから、オレはゆるりと首を振った。
何が何だかわからないこの状況で誘惑に乗ってしまえば、きっと後悔するような気がして。
王は一言、そうか、と言うだけだった。
「辛くなった時は、余の名を呼べ。どこへ居ても、必ずそなたを迎えに行こう」
温もりが離れ、市松模様の床がゆがみ、王の声は聞こえなくなる。
ゆっくりと意識が遠退いて、オレは闇に沈んでいった。
目を開けた時、そこは最近人間ではない美貌の居候が増えた自分の部屋の、ベッドの上だった。
「ゆ、め………じゃない、のか」
指先に口付けの温もりが、微かに残っている気がする。
いつも勝手に隣に潜り込んで来る居候の姿は、ない。また、どこぞへでも出かけているのだろう。
身を起こして、窓の外を見る。寝る前とは違い、家々の光が消え、星の光だけが闇の中に浮き上がって見える。
昶は、窓ガラスに映った自分を見た。
色素の薄い茶色の髪。青に近い灰色の目。いつもと変わらぬ自分の顔。
けれども、それが一瞬別の色彩を持つ人間に見えた。
《アキ……》
声が聞こえたような気がして、不意に胸が熱くなる。何か、自分はとても大事なことを忘れているのではないだろうか。
何故だが瞳から一筋、涙がこぼれた。
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