あの時、どうしてあの人と一緒に行かなかったんだろう、と最期に思った。

血で濡らしたその手を、嫌いになったわけじゃない。
命を簡単に切り捨てる冷酷さを、嘆いたわけじゃない。
害する時に嗤う残忍さを、怖がったわけじゃない。

むしろ、好きだった。

その冷たさも、残忍さも、すべてを含めて、好きだった。恋、と言っても過言じゃなかっただろう。
あの闇に浮かぶ緋色が燃えるように紅く染まる瞬間など、ワクワクさえした。
猫のような黄金の瞳が、自分に笑いかけてくれる度に、胸が高揚するほど嬉しかった。
それでも行かなかったのは、気紛れ、な性質だと知っていたからだ。
一番怖いのは、捨てられること。自分を見てもらえない、こと。
だから、誘われても、首を振った。
あの人に捨てられたら、きっと自分は息すらできなくなるに違いなかったから。
そうなってしまったら、自分の内にある《守護者》をまた殺してしまうことになるから。
あの人が消えた後、どれだけ泣くことになっても、それだけはしてはいけないことなのだ。
…結局は、心配した守護者がそのために再び訪れる深い眠りと引き換えに、あの人や影の世界に関わった記憶をすべて封印することになったわけだが。

だけど、その身を賭して守ってくれた守護者には内緒で、決めていた。
次に出会って、何も覚えていない自分を、それでもあの人が求めてくれたときは。


―――迷わず、闇に堕ちていこう、と。







あれから数日。
何かあるかと思われた焔緋からの接触は、何もなかった。彼の子であるシンたちも同じ。
いつもと変わらぬ日々。今日もその内の1日だ。何だかんだ言ってついてきた友達と、無駄に美形なヒトでない居候、『穴』の情報を持ってきた兄貴分が前を歩き、彼らの一歩後ろを昶が歩く。
コクチとの戦いは、相変わらず毎日と言ってもいいくらいある。学校に行っても屋上で寝ていたり、サボってゲーセンで遊んだり、見つかって綾に追い回され、そこへ気付けば洸が加わり有耶無耶の内に終わる、変わらぬ毎日。
けれど本来、いつもと変わらぬ、というのはおかしいのだ。退屈だった日常の中には、シンになって戦う、という項目はなかったのだから。
もっとも、戦うといっても、白銀や洸と違ってまだまだ力不足の昶たちは、怪我をしたりしなかったり、精々足を引っ張らないよう頑張るだけだが。
でもそれが一月くらいしか経たない今では当たり前になっているのは、少し前の彼には全く考えつきもしないことだった。
普通の生活。退屈な日常。……が、それを望んでいたのだから。
(…あれ?誰が望んだんだっけ)
痛む頭を軽く押さえる。また、だ。このところ、昶にはこんなことが頻繁に起こる。
ふとした拍子に何かを思い出そうとすると、頭痛がするのだ。それは、まるで昶が思い出すことを拒んでいるかのようだった。
(クソっ。大事なことのはずなのに、思い出せないなんて…!)
「そーいや、さ。劉黒って強いの?」
前を歩く彼らの中で、今日の戦いの話をしていた賢吾が、ふと何気ない疑問を口にした。
人でなくなった体に、どくり、と脈が不自然なリズムを刻む。
「…それ、今頃聞く?」
「や、だってさぁ。劉黒って昶の前世みたいなもんでしょ。だったら強いのかなと思って」
「そうよね。私たち、その人のこと全然知らないし。どうなの?」
綾までがその話に乗ってくる。頭の痛みが一層酷くなった。視界がくるくると回る。
「ん〜…強かったよ。すごく。ねぇ、白銀?」
「……えぇ。彼は、とても強かった。光そのものだけに、美しく、聡明で、私が知る中では一番強い存在でした」
懐かしむ青い瞳には、愛おしげな光が浮かんでいる。口調もどこか柔らかい。それは一度も昶に向けられたことのない、優しい目……優しい、声。
「白銀ってば、光人は影の世界に来るなとか言うくせに、遊びに行く度に劉黒に会ってたっけねぇ」
「あれはあっちから来てたんです。そういうアナタは、どこへ行くにしてもいつも劉黒にべったりでしたよね」
「そりゃあ、劉黒は俺のご主人さまだし?」
「それを言うなら、彼は私の対で、唯一の理解者でもありましたしね」
(おねがい…それいじょうは、みたくない。ききたくない)
《それ以上は言うなっ。……を、壊さないでくれ!》
誰かの声が、重なって聞こえる。それと同時に、割れるように頭の痛みが段々激しくなってくる。目の前が暗い。全身の血が、沸騰するみたいに、あつい。
「―――……ンっ」
声にならない声で、オレは何かを咄嗟に呟いていた。

ぴたり、と風が止まった。

途端に張り詰める、異様なまでの緊張感。立っているのがやっとなくらい、威圧的な空気がその場に張り詰める。
前を歩いていた4人が、驚愕しながらも身構えるのが、かすかに戻った視界に映った。
「だから言ったのだ。この世界は、そなたにとっては、毒にしかならない、と」
耳元で、あの夢と同じテノールの声がして、振り向く。

すぐ間近に、血の王がいた。

「ほ、むら…び……」
「かわいそうに。傷付きすぎて、どれほどの血を流しているかもわからなくなったか」
腰に手を回し引き寄せた体を自らに寄り掛からせた血の王は、優しく額に口づける。
「ど、して…」
「おかしなことを訊く。呼んだのはそなたであろう、昶…いや、アキ」
どこへ居ても迎えに行く、と言ったではないか。
白く冷たい指先が、頬に触れる。エメラルドゴールドとも言うべき妖しい瞳に、泣きそうな顔をした昶が映っていた。
「あの時も、そんな風に泣きそうな顔をしていたな」
苦笑して、ゆっくりと頭を撫でる。この感覚には、覚えがあった。
『余の傍に、来い。アキ』
底に封じ込まれていた記憶の断片が、目の前を過ぎる。
あの時、幼い自分に手を差し伸べていたのは、間違いなく―――。
「もう一度言う。影の世界に、余の傍に来い」
賢吾たちが昶の名前を呼んで駆け寄ろうとするが、王が呼び出したコクチに邪魔されて近づけないでいる。
それを…昶を見る白銀を、目だけ動かして見やると、瞼を閉じ、昶は今度こそ小さく頷き返した。
頭上で、抱く腕に力を込めた血の王がにやりと笑う気配がした。
続いて氷に触れたような感覚を唇に感じた後、電流が走ったような痛みが昶の体を駆け抜けた。
同時に―――記憶の封印が、蓋を開けた。
「焔緋、貴様ぁっ!」
接吻した瞬間を目撃し、激昂した白銀が、焔緋へと刃を振り下ろす。
だが、それが叶わなかった。
キィィン、と響く澄んだ音に、白銀は驚き、焔緋は口の端に笑みを浮かべた。
「あ、あきら、クン…?!」
刃を受け止めたのは、昶だった。
しかし、その姿は刻々と変化していく。
黒の髪はセピア色に。紅玉の瞳は、片側だけ灰青色に。身に纏うものも開襟シャツから詰襟にも似たスタイルの、まるで喪服のような裾の長い衣装へと。
再構築されるかのごとく、ゆっくりと、昶の体に変化をもたらしていく。
「構わん。退いていろ。そなたにこのようなことをさせたかったわけでは、ないからな」
肩に手を掛け制止する焔緋に、昶はゆっくりと頭を横に振った。
「本当は、最初から決めてたんだ。もう一度エン(・・)に会えたら、今度はどこまでも一緒にいるって」
白銀の剣を滑らせるようにしてはじき返すと、彼は背にいた王に哀しげな目で微笑んだ。
弱々しい、だが真っ直ぐと向けられるガラスの瞳。それは、焔緋が良く知っている、昔の子供時の瞳そのものだった。
「…改めて繋ぐ必要は、なくなったというわけか」
小さな独白に、聞こえなかったと首を傾げる昶を胸に深く抱き込み、己の腕で閉じ込める。腕の中の子供は、頬を染めて身じろぐも、大人しく収まることを承知した。
そこへ、水を差すような怒声が飛んだ。白銀、だ。
「これは、一体どういうことだ!」
「見たままであろう。昶とそなたの縁は、所詮簡単に切れるものだったというわけだ」
「そんな馬鹿なことがあるかっ。貴様、そいつに何をしたっ!!」
まるで責め立てるような勢いに、昶がビクリと体を強張らせる。焔緋にとっては、それすらも不快で、周りの全てを遮断するかのように、抱きしめる腕に力を込めた。
「何を憤ることがある。いくらこれが劉黒の因子を継いでいようと、これはもう、そなたの所有物でも、ましてや劉黒の身代わりでも何でもない。たった今、ようやく、自ら余のものとなることを承諾したのだからな」
暗く嗤う血の王に、白銀が息を呑むのが昶の耳に届いた。洸や賢吾、綾も同じような顔をしているのだろうか、と思う。
けれど、昶にとって、そんなことはどうでもよくなってきていた。
眠りに落ちる寸前のような、心地よい冷たさが身を包む。白銀とは違う、冷たくも熱い腕の中で、闇色の衣に包まれた彼は安心からか次第に微睡んでいく。
(次に会った時、あいつらはどんな顔をするだろうか)
取り戻そうとするか、蔑んだ目で見るか、それとも―――。
「これを壊れかけた器にしたのは、そなたら。突き放すことをしたのも、そなたらだ。これを非難する資格が、はたしてそなたらにあるのか」
冷たい嗤いを含んだ声が、理解できない顔をする4人を揶揄した。
昶を包む影の気配が、次第に濃くなる。影への扉が開いたのだ。
ふと、昶は、深い眠りについた守護者が、彼の守る子供が自分を殺した相手へ堕ちることを、許すだろうかと考えた。
《お前が幸せでいられるなら、それもいいだろう……》
「リュウ…?」
脳裏に白い衣を纏った誰かが、ふわりと笑いかけてきたような気がした。
「最後に言い残していくことはあるか?」
「……ないよ。そんなもの」
光を裏切った光の王にそんな資格はないのだ、と。
けれども、一粒だけ流れ落ちた涙の雫を向こう側に置き去りにして、昶は愛する血の王とともに影の世界へ飲み込まれた。


ただ、飲まれる寸前に、あきらくん、と白銀の悲しげな声が聞こえたような…気が、した。



〜あとがき〜
書斎掲載SS、加筆大幅修正済。 焔昶路線が確定し始めた頃に書いたSSを、本っ当に大幅に書き直したやつです;
設定としては、フェアレディ以外のとほとんど同じなIF物です。なので、男の子です。
焔緋と別れた後に毎日泣く昶を心配して、劉黒さんが自分の意識が再び深い眠りにつくことを覚悟で、焔緋やら影の世界やら果ては劉黒さんに関係する全部の記憶を封印してしまったら…なとこですね。しっかし、私が書くとエン様がどうにも独占欲強すぎる人物になってるような…;
よし、充電も終わったし。次は、フェアレディシリーズ、続きを…ゼヒ。