敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 マタイによる福音書第5章21節
「でっでは、あなた方が、しゅっ主にまみ見え、お言葉を、たっ賜わった奇跡を、いわって・・・はっハレルヤ。」 震えた手で、ニキビ顔の少年は言った。その表情はおどおどとしていて、動作もぎこちなかった。もし彼が、この世界で唯一身につけることを許された教皇の白い法衣を着ていなかったら、天下の教皇アレッサンドロ][世であると気づいた者もいなかったかもしれない。 一方、教皇とは対照的に祝福を受けた少年は冷静だった。教皇に謁見するという、普通では考えられない偉業を成し遂げたにもかかわらず、彼の表情には少しの緊張もうかがえぬ。むしろ、それがいたって自然であるかのように、彼は静かに目を閉じた。 「ありがとうございます、聖下。」 おおよそどちらの立場が上なのか間違うほどに、落ち着いた様子で少年は一礼した。 そして、ふと顔を上げると、迷うことなくまっすぐに少年教皇を見つめて、なんでもないことのように言葉を続けた。 「ところで、こちらから以前より申請しておりました、十字軍の発動要請の方は、いかほどにお受け取りでしょうか。」 「じゅっじゅうじぐん!?」 思わず上ずった声を上げてしまい、教皇は慌てて口を押さえた。しかし、口はしまりきらないままにだらしなく垂れ下がり、困り果てた瞳は傍らに動く。 「−それにつきましては、現在コンチストーロ枢機卿会議にて検討中です。もうしばら暫くお待ちなさい。」 すっかり途方に暮れていた少年教皇の代わりに口を開いたのは、傍らで謁見者たちに鋭い視線を与えていた一人の麗人だった。 カテリーナ・スフォルツァ枢機卿。長い金髪をボリュームたっぷりに結い上げ、剃刀色の瞳をきつく光らせているこの政治家は、現教皇アレッサンドロ][世の義姉にして、国務聖省長官としてこの教皇庁に君臨する人物である。彼女は、少しも教皇の前で遠慮というものを知らぬ少年に対し、冷たく答えを与えた。 しかし、少年はこの恐るべき政治家には見向きもしなかった。彼の目はあいもかわらず、自分とそう年も変わらぬ少年教皇をまっすぐ見つめるばかりだ。 「僕がお聞きしたいのは、枢機卿会議の決議結果じゃありません・・・」 その声は、口調こそ控えめであるものの、少しも引き下がる気ことを知らぬ少年の意志の強さを、まざまざと見せ付けていた。 「僕は、教皇として、主に最も近きところおられるアレッサンドロ][世におききしているのです。」 「無礼をわきまえなさい。聖下に直接ものごとをたずねるなど、主への冒涜もいいところですよ。」 少しも物怖じを知らないこの少年を、義姉は鋭い口調で糾弾した。しかし、枢機卿の批判にあっても、少年は少しも悪気があった風を見せず、ただ少し肩をすくめて見せただけだった。 「それでは僕たちは、枢機卿会議の決議を待てばよいということなのですね。わかりました。しばらくこちらで待たせていただきます。」 「ええ、そうですね。決議までにはもうしばらくかかります。それまで、このローマでゆっくりしていくといいわ。」 「はい。ご配慮、感謝いたします。」 少年は、この若きらつわんか辣腕家にうすい笑みをつくると、深々と一礼した。 「それじゃあ行こうか、みんな。もう顔を上げてもいいよ。」 少年は、傍らでずっと人形のように控えていた子供たちにそう呼びかけた。 先刻までは、行儀よくじっとしていた彼らだが、その声を聞くや否や、ねじを巻かれたように動き出した。 「うわぁ、教皇さまだっ!」 「本物だぜっ!すっげえ高そうな服着てるもん。」 「ねえ、教皇さまは主にお会いしたことがあるの?」 「ぼっぼく!?」 急に話し掛けられ、アレッサンドロはびくりとした。見れば、子どもたちがみな、特有のきらきらとした好奇の目を彼に向けているではないか。 「ぼっぼくは・・・」 「あたしはね、思わずひざまずいちゃったんだ。飼ってた羊たちだって、前足を折ったんだよ。」 「ぼくはさ、主にお会いする前に幻を見たんだ。お星さまが、空を十字架みたいにきってくの。」 「それあたしも見た!すっごいびっくりしたー」 「ぼくもー!」 「ねえ、教皇さまは、主にお会いした時どんな感じだったっ!?」 「だっだから、ぼくは・・・」 子供たちの渦に呑まれつつある教皇に、美貌の政治家はものも言えずにあきれていた。しかし、やがてどうしようもなくなり言い放つ。 「いいかげんになさい。恐れ多くも聖下の御前で、何たる無礼ですか。」 有無を言わさぬ冷たい響きに、思わず子供たちは保護者である少年の陰に隠れた。それを少々あきれた表情で見つめると、少年は相変わらずの口調で謝罪の言葉を口にする。 「この子たちの無礼なら、代わって僕がお詫び申し上げます。大変申し訳ありませんでした。ですが、彼らはみな、まだ何も知らぬ子どもです。どうか、その寛大な御心でご容赦下さいますよう。」 少年は、驚くほどに据わった目でそう言った。通常、恐れ多くも教皇と枢機卿の居合わせる間でのこのような行為は、到底許されたものではない。まして、それを謝罪一言で許せなどというのは、遠慮も極まりない行為と言わざるを得ないだろう。 しかし、そのような局面にあってもまっすぐに恐ろしき枢機卿貎下を見つめる少年に、さすがの彼女も呆れ顔になった。 「・・・下がりなさい。もう用は済んだのでしょう?」 「はい。」 枢機卿の寛大な御心に少年は、感謝の意を込めて再び優雅に一礼した。そして、何事もなかったように子どもたちの方を振り返ると、彼らを連れて謁見の間をあとにした。 少年たちの姿が扉の遥か向こうに消えてゆくのを確認すると、若き辣腕家は大きなため息をついた。 (まったく・・・どいつもこいつも、遠慮というものも知らぬ田舎者が。) 頭痛の襲う額を軽く手でおさえ、カテリーナは心の中でそう毒ついた。しかし、少しの休息もなく、新たな頭痛の種が彼女の耳朶を打つ。 「あっあね、ぎみ・・・。」 すっかり憔悴しきった少年の声が、何の前触れもなく彼女に呼びかけた。 ふと傍らに目を向けると、おびえきった表情の義弟が、救いの手を求めんばかりに彼女を見つめている。 「何ですか、アレク。私に何か?」 「ぼっぼく、しゅっ主になんて、おお会いしたこと、ないのに・・・きょっ教皇なのに・・・。」 その目は潤んでいて、今にも泣き出しそうだ。周囲の冷たい目が見つめるなかで、たった一人自分が頼りにできる義姉にすがりつく義弟を、カテリーナは無下にすることもできず、ため息をついた。 「どうせ彼らとて、主にお会いしたなどということは間違いに決まっています。安心なさい、アレク。誰がなんと言おうと、今はあなたが教皇なのですよ。」 カテリーナは、この情緒不安定な義弟をこれ以上不安に陥れぬよう、慎重に言葉と紡ぎ出した。 「教皇とは、主に最も近き存在。そのあなたが違うと言うのなら、彼らの言うことなどでまかせに決まっています。あまりに相手があなたを侮辱するようなら、あなたがしっかりと言うべきです。“主は私の傍に常におられる”と。」 「でっでも・・」 「それが教皇というものです。わかりましたね?」 「・・・はい・・・。」 疲れもあったせいか、その声に幾分か強制力が含まれていたことは否めなかった。反論を許さぬ強い口調に、少年教皇はただ頷く。それを確認すると、彼女は正面を向きなおって言葉を続けた。 「言いたいものには言わせておきなさい。教皇を無視して自ら主にお会いできたなどと堂々と言ってのけるなんて、異端にも等しき行為ですよ。」 「そっそんな、い異端だなんて・・・。」 アレッサンドロは、震える唇を閉ざしてうつむいた。しかし、一方でその場に集まっていた老枢機卿たちは、カテリーナの声にそれぞれ強くうなずいている。 そんな彼らを、カテリーナは内心冷ややかな目で見つめた。 (そう、これは一歩間違えば異端審問にかけられてもおかしくない事態。今この場にいない兄上が聞いたら何と言うかしら。) 義兄―フランチェコ・ディ・メディチ枢機卿は、教理聖省長官をつとめ、彼女とともにこの教皇庁を取り仕切る存在であるとともに、彼女の最大の政敵でもあった。 特に、彼の率いる異端審問局は、神の名を振りかざす教皇庁最恐最悪の軍団であり、カテリーナの配下にある国務聖省の職員とぶつかることも多かった。 (これで、主の啓示を聞く子供たちの訪問も4度目。しかも彼らは、主にお会いしたなどという戯言にこじつけて、教皇に謁見を許すまでになっている。もうそろそろ無視できなくなってきた頃ね。) 先の事にさらにカテリーナが頭を悩ませていると、不意打ちでも食らったかのように、突然外部回線がオンになった。突如として、謁見の間に一つのホログラムが浮かび上がる。 そして結ばれた虚像を見て、一瞬若き枢機卿の顔に憎々しげなものが浮かんだ。 「・・・まあ。これはこれは兄上。今日は如何様なご用件ですか?」 ホログラム上の義兄の実直な顔に、カテリーナは冷たい表情を向けた。 「用も何もない。カテリーナ、もうこれで4度目だと言うではないか。」 「おや、一体何の話でございましょう。」 義兄が示すものには重々に承知していながら、軽い反抗心でカテリーナは空とぼけてみせた。 そのわざとらしい声を聞いて、義兄の口調が少し強くなる。 「主の名を語る異端者ども以外にあるまい。お前はいつまでこの件を放っておくつもりなのだ。」 (そらきたー!) 案の上の展開に、カテリーナは更なる頭痛の種を感じた。 「オルレアン、ケルン、ハーメルン、そしてマッシリア。各地から、恐れ多くも主にお会いしたなどと言って、このローマにやってくるものがあとをたたんというではないか。事はゆゆしき事態だぞ!他国の一地方の子どもが主に会ったなどということは、教皇庁に対する大いなる冒涜だ。直ちに彼らを異端審問にかけるべきではないのか。」 「落ち着きくださいませ、兄上。事はそうも簡単には行きませぬ。オルレアン、ケルンの子供たちがその後どうなったかはご存知ですか?」 「それがどうしたというのだ?」 「消えたのでございますよ。彼らが教皇庁に来てちょうど一ヵ月後に。」 「あっあにうえ、あねうえ、いっ言い争いは・・・・」 間が外れたように言葉をはさんだのは、二人の義弟でもある教皇の少年だった。 モニターをはさんで、兄妹の熾烈な争いが繰り広げられている。誰もが緊迫して見守る中、彼だけがその様子にオロオロとし、口の中でもごもごと言葉を繰り返している。 しかし、当人たちが、そんな義弟の様子に注意を向けることはなかった。 「消えた?そんなはずはあるまい。どうせ教皇庁にはむかったことが怖くなり、逃げ出しただけではないか。」 「違います。それならば、私の部下がとうに行方をつかんでおりましょう。彼らは本当に消えてしまったのです。それも話によると一夜にして忽然と。」 「そんなことは言い訳に過ぎん!カテリーナ、お前の部下の探し方がぬるいのではないか。そんなことなら、我が異端審問局が捜索をして、必ずや異端者どもを引きずり出してこよう。」 「お待ちくださいませ、兄上。」 急性な性分の義兄を、カテリーナは激しい視線でねめつけた。 「捜索隊を出すには及びませんわ。此度のマッシリアからの訪問者たちについては、二度とこのようなことが起きぬよう、ローマ市内の手の届くところに留めてあります。彼らは、国務聖省の職員が四六時中見張っておりますので、ご安心を。それに、まだチャンスはありますわ。」 カテリーナは、この頭の固い義兄にも分かるように、ことさらにゆっくりと話を進めた。もったいぶるように一呼吸おくと、一見気のない風を装い、手持ち無沙汰な様子でそっと視線を手元に落とす。 「三者目の訪問者たち―ハーメルンの子供たちが教皇庁を訪れてから、もう間もなく一ヶ月になります。前の二件から考えて、彼らが消えるのもこの時期と考えたほうがよろしいでしょう。」 「ふむ、そうか。その手があったな。では、消えた異端者どもの捜索は引き続きお前に任せるとして、そちらは早速、我が異端審問局の局員をやって、現地の異端者どもを共々―」 「それには及びませんわ。」 カテリーナは、その瞬間、顔を上げた。この時ばかりは、彼女の声は、ローマに君臨する枢機卿らしく、威厳と自信に満ちていた。 「ご心配には及びません。既に現地には、しかるべきスタッフを、それも、とびきり優秀な者たちを送り込んであります。彼らならば、必ずや、真相を掴んで参りましょう。」