明日の用意をし、もう寝ようとしていた少女は、じくりと、胸の奥が疼くような感じがした。
今までにも幾度かあったそれは、少女に流れる血のもたらす、予感ともいうべきもの。
少女は、部屋の端に備え付けた大きな水盤を覗き込む。暗闇に浮かぶ盤の、縁を飾る二対の赤い石を嵌め込んだ銀色の龍は、緻密な細工がされており、まるで生きているようだ。
しかし、盤の中でさざなみを立てる水に映るのは、覗き込む少女の顔でも盤の底でもなく、色とりどりの光であった。中でも中央に座する金の光は、一際明るく輝いている。
「………大変、だわ…」
唇を震わせ小さく呟いた少女は、急いで外出着に着替えると、別の部屋でまだ起きている筈の従兄を呼びに、部屋を出て行った。
★
某月某日、午前2時過ぎ。誰もがとうに眠りについている、丑三つ時である。
しかし、そんな時間に木の葉の里を、一つの影が静かに、目にも止まらぬ速さで走っていた。
やがてそれは、里の中心で唯一光灯る大きな建物の、最上階にある部屋へと降り立った。
「…ただいま、戻りました」
中にいたのは、里の最高権力である火影の笠を被った老人と、長い金色の髪を束ねた年端もいかない少年の2人。
しかし、労いの言葉を口にしたのは老人ではなく、少年の方だった。
「ご苦労さま。『翔』…イルカ先生」
書類を捌く手を止めて、にこりと微笑む。子供とは思えない、落ち着いた雰囲気である。
「やっぱり早いね。イルカ先生に頼んで正解だった」
「火影代理ぃ……そうは言うが、結構きつかったぞ。朝から国境まで走らされるとは思わなかった…」
疲れきった様子で呟けば、火影代理と呼ばれた少年――ナルトは軽く笑いを含んで言った。
「ごめんね。ハヤ兄たちから来た情報をすぐにでも確かめたかったからさ。玖嵐は他に使いに出してるし」
「……桜花さんとか他の暗部鷹はどうした?」
「他の子たちは、上層部とかにバレると困るからダメ。桜花は、別の仕事でこっちに残って貰ってる」
「結界の張り直し、なんじゃと」
老人――火影が理由を告げた。だが火影が書類を書く手を止めると、すかさず隣に座るナルトから注意が飛ぶ。げんなりとした様子を見ると、どうも長い時間ずっとこんな調子らしい。机に置かれた書類の山がそれを物語っていた。
「この間、お騒がせ殿下が来たってのは聞いてる?」
「殿下?……あぁ!再不斬さんたちがぼやいてたな。三千院家の若様探しさせられて護衛までやらされたって」
「そのとーり。で、そいつにくっついて入ってきた馬鹿の一人に術師がいたみたいでな。結界の一部が微妙に綻んでるんだ」
中忍試験前で忙しいのに、とナルトは文句を言う。前に聞いた説明だと、『結界』は侵入者を探知したり里を悪意ある妖や術から守るために仕掛けた網のようなもので、霧幻の森に住む神が代々張っている、らしい。
子供っぽい仕草に苦笑したイルカは、ご苦労さまの意味を含めて2,3度軽く頭を撫でてやった。
「それで?渡してくれた?」
「あぁ。ついでに返事を貰ってきた」
懐から預かってきたものをナルトに手渡す。それは、ミズキの花の透かし模様が入った白い封書だった。蝋に押された刻印は、大極図に牡丹――黒白街のものである。
「それで遅かったというわけじゃのぉ」
「言っただろ。じいさまと違って、先生は遊んだりしないって」
「ふん。あんなとこへ行けば、誰じゃって遊びたくなるというもんじゃ」
拗ねた口調で、のぅ?と火影に尋ねられたイルカは、途端に顔を赤くしてそっぽを向いた。
「というかっ、ミズキはよくあんなところで暮らしてられますねっ」
「……相当、遊ばれたのぅ?」
「遊んでません!!任務中でしたしっ、帰りが遅くなっても困りますから!」
「じいさま、からかうのはそれくらいにしてあげなよ」
中から上品な薄水色の便箋を引っ張り出し、ナルトはざっと目を通す。だが内容を読んで、眉根を寄せた。
「どうした、ナルト?」
「ん……」
問われたナルトが珍しく躊躇ったことに、火影はおかしいと思った。
しかし、再度尋ねようとした声は、扉を叩く音によって掻き消された。
「失礼します、火影様」
「おっ、イルカも帰ってたのか」
入ってきたのは、暗部装束を身に付けた弥生と海生――月光ハヤテと不知火ゲンマの2人。どうやら、あちらも任務帰りのようだ。
「こんばんは。ハヤテさん、ゲンマさん」
「…で?何で、後ろにイビキ兄やアンコ姉がいるの?」
ナルトの言う通り、後ろには何故か、彼らの同僚であるイビキとアンコの姿までがあった。アンコが頬を膨らませて、不機嫌顔になる。
「何よ。いちゃ悪いの?」
「そうじゃなくて。2人とも、今日は仕事終わってるでしょ?」
「あぁ。ただ、お前への客に何かあってはいけないと思ってな」
苦笑まじりに言ったイビキが、彼らの影に隠れていたナルトの客らしき人物を前へと押し出した。
「ヒナ、ネジ?!」
「あ、あの…こんばんは」
「遅くにすまない」
やってきたのは、幼馴染である日向家のヒナタとネジであった。ネジの話によれば、突然今からナルトの所へ行くと言い出したヒナタに、こんな夜遅くに危ないからとネジがついて行き、途中で偶然会った2人(ナルトに差し入れに行く所だった)がどうせなら、と護衛を申し出てくれたらしい。
礼を言うネジの隣で、深刻な顔をしていたヒナタにナルトは話しかけた。
「それで、ヒナ。どうしたんだ?」
「……さっき、変な胸騒ぎがして、水鏡を覗いてみたの」
ヒナタの部屋には、1枚の水鏡が置かれている。それは、日向家ではなく、母のアヤメの実家ともいうべき幻の先見(未来予言)一族・『鏡見』本家からヒナタに贈られた、歴史ある占具の一つだ。
「何か映ったのか?」
「……不穏な、未来が」
ヒナタの静かな言葉に、その場にいた全員に緊張が走る。彼女は神秘的な光を瞳に湛えたまま、ゆっくりと続ける。
「近い内、里は大きな打撃を受けます。闇を抱えた星が静かに入り込み、風を起こし、漣は徐々に大きくなって全てを飲み込もうとするでしょう」
宣託めいた言葉は、抽象的過ぎてよくわからない。だが、ナルトには思い当たるところがあったのか、ミズキからの手紙を見直し、封筒を見て、もう一枚便箋が入っていることに気付いた。今度のは薄紅色だ。
「あ?もう一通入ってるけど、ミズキのじゃねーよな?」
「えっ、ミズキからじゃない?…本当ね。色が違うわ」
「あ、それはミズキじゃなくて……」
「芳紀姐さん、だろ」
『芳紀』とは、ミズキが今居候している槿花楼の女主人で、ナルトは昔ちょっとしたことがあり、以後掟の例外として懇意にさせてもらっていた。そのよしみや各地の情報が入りやすい場所ということから、里から(公には)追放された身のミズキは(色街嫌いにも関わらず)未だそこに身を寄せていたのだ。
ちなみに、その生活の実態はどうかというと……
「ミズキさ〜んっ。お座敷の電球切れたから、換えてくれる?」
「ミーさぁん。着物の裾破けちゃったぁ。直してっ」
「………ああぁっ、わかったから!落ち着いて、順番にっ。まだこいつの髪弄ってる最中だから!」
「……モッテモテやね〜、ミズキにーさん」
「うるさいっ。そう言うんだったら、自分でやって、手伝え〜っ!!」
……こんなもんである;(合掌)
それはともかく。
芳紀からの手紙に目を通したナルトは、大きくため息をついた。
「何ですって?」
「……オレが前に聞いたことの答えと、あとはミズキ兄と同じようなことが書いてある」
「結局、ミズキは何て書いて寄越したんだ?」
読み終えた2つの手紙を封筒ごと瞬時に灰にし、ナルトはゆっくりとイルカ、ハヤテ………と、その場にいる全員を見回して、最後に3代目火影に視線を向けた。
「北の蛇が、中忍試験を利用して、木の葉に戦争を仕掛けてくる」
その言葉に、全員が息を呑んだ。
「……大蛇丸、が…?!」
「木の葉と戦争するですって?だけど、そんな戦力……」
「いえ、可能でしょう。確か、大蛇丸は音の里という、新興集団の長になったと聞いています」
「…マジかよ。中忍試験には、各国・各里からも多くの奴らが集まるんだぜ」
「…ナルト。ヒナタの占いに出た、闇を抱えた星というのは、やはり…」
ネジの問いに軽く頷き返し、ナルトは考え込んでいる火影を、ひたと見据えた。
「三代目。どう、なさいますか?」
蒼く澄んだ瞳に見つめられ、だが火影は視線をそらすことなく答える。
「…既に準備は始まっておるし、各国への連絡も済んでおる。情報源は上層部に伝えられぬことでもあるし、今更予定は変えられん」
「では、やはり……」
「うむ。このまま中忍試験を予定通り行うしかないようじゃ」
決意のこもった言葉に、皆が一様に緊張した面持ちで首を縦に振った。
「確かに、そうするしかないだろうな。信憑性はこれとないほど高いけど、実際に来るのかは書いてなかった。それに試験期間は予選も含めて2月ほどかかるから、どこで襲撃されるかなんてわからない」
ナルトにはある程度の予想がつくが、それはあくまで予想にしかすぎない。
「お主たちには、やってもらうことが他の者より山ほどある。それでも、何とかしてもらいたい」
「大丈夫だよ、じいさま。オレたちがいるし、今ここにはいないけど、アスマやミズキ兄、シカたちだっている。心配することはないよ」
「……すまぬのう、ナルト」
微苦笑を浮かべた火影は、力なく実の孫のような少年の頭を撫でた。
「今日はもうよい。皆、帰りなさい」
特別上忍たちを労いの言葉と共に、家へと帰す。しかし仕事が残っているナルトと、もう少し従兄弟の側にいたいと言うネジとヒナタだけは、その場に残った。
「お前もじゃよ、ナルト」
「けど、まだ書類が…」
「構わん。今日は疲れたじゃろう。ネジとヒナタを送っていくついでに、日向家に泊まってやるとよい。仕事は、また明日にしなさい」
「…わかった。けど、じいさまも今日はこれ以上仕事するなよ。」
おやすみ、と言い残して、ネジとヒナタと共に、ナルトも部屋の外へと出て行った。
後に残るのは、火影ただ一人。だがそこにいるのは、『火影』ではなく、『猿飛』という一人の老人であった。
「決着をつける時が、やってきたようじゃな…」
窓から外を見上げ、きらめく星空を眺める。
その瞳は、昔への後悔と、ただならぬ決意の念と…ほんの少しの淋しさを秘めていた。
老人の、小さな呟きを聞いてしまったナルトは、扉に背をつけたまま、ずるずると床に座り込んだ。
俯いた顔はどんな表情を浮かべているか、ヒナタやネジからはわからない。
けれど、その白い頬に、一雫さえ涙が流れることはなかった。
崩れゆく刻・序章
〜あとがき〜
というわけで、中忍試験編の序章をお送りします。この先あの人とかあの人とか、色々出てくるので書くのが楽しみです♪
ちょっとだけヒナタちゃんの秘密が明らかになりました。このあたりも書かなきゃいけないんですけど…追いつかない;そのうち何とかします(泣)
ミズキさんの暮らしも少しだけ出せて、満足ですっ。色街嫌い…というか、苦手な彼は器用なため、居候するなら仕事しろってことで、いつの間にか楼の頼れるお兄さんになってます(笑)
さて、次はようやく砂の3人の登場になりますっ。シカさんも出番増やさないと…。一応本命・シカナルですしね;
……あ、ちなみに。『翔』はイルカ先生のことです。正式な暗部じゃないですが、やってることは諜報・伝令(早い話が全部がナルトのお使い・笑)です。
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