静かな回廊に、コツと規則正しい音が大きく響き渡る。
時間は真夜中。朝の早い教会では、もう誰もが夢の中だ。
眠たさに出る新たな欠伸を噛み殺し、部屋へとまっすぐに向かう。
回廊を満たす空気は澄み、窓の外では星空が煌く。まだ残る寒さに吐息は白く、空気に溶け込んでしまう。
ふと、音が響きを止めた。
「………うた?」
足音を止めた黒い人影は、聞こえてきた微かなそれに首を傾げた。
一体誰がこんな時間に起きているというのだろうか。
「使い魔の仕業、か?」
先程まで相手をしていた『仕事』の標的達を思い浮かべる。もし、これが奴らの仕業で、惹かれる者を絡めとろうとしているなら、なおさら問題だ。
しばしその場で考え込み、彼は歌声の主を見つけることにした。
歌声に誘われるまま、彼は夜の教会を移動する。気がつけば、教会の一番上へと辿り着いていた。
歌声がどんどん大きくなっていく。歌は、教会でもよく歌う鎮魂歌。近付くほどに、それは悲しみに溢れた透明な声だとわかる。
最後の扉を開けて、外へ出る。歌声の主は、はたしてそこにいた。
白い長衣をはためかせ、瞳を閉じて、一心に歌うのは――――黒髪の、天使。
何かに祈るように。誰かを弔うように。その澄んだアルトの鎮魂歌は、夜空を駆け、響き、全てを魅了する。
一枚の絵のような美しさに見惚れ、思わず彼は立ち竦んだ。
「…………ぅおわ!!フラウっ?!」
自分を呼ぶ声に、彼――フラウはようやく我に返った。歌を止めたテイトは瞬きをして、いつの間にかこちらを驚いたように見ている。フラウはつとめて普通に話しかけた。
「…こんな時間に誰かと思えば。お前か、クソガキ」
「……もしかして、起こしちゃった?」
「いや。『仕事』から帰ってきたとこだ」
そう言うと、お疲れさま、と微笑んで返してきた。心休まる、穏やかな笑顔。けれど、それは決して少年の今の心の奥底を映したものではないことを、フラウは知っている。
「で。お前は何でここで歌ってたんだ?」
「ねむれなくて。気がついたら、ここにいて、歌ってた」
答えるテイトに近付き、そっと触れる。いつからここにいたのか、頬は氷のように冷たかった。しかし、フラウの咎める視線から、テイトは意図的に目を逸らす。
「仕方、ないじゃん。どうやっても眠気が来ないんだから」
「だからってなぁ。こんなとこで何時間もいたら、風邪引くぞ」
「仕方、ない、じゃんか」
だって眠りたくないんだ、と口には出さずに、テイトは繰り返し答えた。けれど、それはフラウに伝わってしまう。
少年が眠りを拒否する理由を、彼は知っていた。
『一人になるのが怖い』のだ。
何しろ、つい先日彼は忘れていた過去の断片を思い出し、そして目の前で最愛の親友を失ったのだから…。
彼がここへ来てから、まだ一週間も経っていないのに、立て続けに起こった悲しい出来事。
最初は、食事ものどを通らぬほどに泣き悲しみ、落ち込んでいた。今は亡き親友が転生したドラゴンをフラウが側に置いたので、まだマシにはなっている。
それでも。時折眠ればひどく魘されているし、悲しそうな顔を無意識の内に見せる。
数日で心を癒すには、ついた傷は深すぎたのだ。
やはり、ここ何日かまともに眠れていないのだろう。星明りの下で見たテイトの顔には、クマがうっすらと浮かんで、痛々しい。
何とかしようと、フラウは決心してテイトに声をかけた。
「明日も早い。もう寝るぞ」
「ん、おやすみフラウ。オレはもう少しここにいるよ」
心ここにあらずといった感じでぼんやり呟く。それに眉を顰めて、フラウは語気荒くテイトに言った。
「って、お前も寝るんだよっ」
「いいよ。だってまだ眠くないし」
「子供はもう寝る時間なんだぞ」
「オレは子供じゃねー!」
そんな子供のような口喧嘩を2人は繰り返す。
しかし、それに段々苛々としてきたフラウは、片手で髪を掻き回すと座るテイトを引っ張り立たせた。
「だぁーっ、もう!来いっ!!」
埒があかないとばかりに、フラウはテイトを抱き上げる。当然、下ろせと暴れるが、今は夜中だと言うと、渋々口を噤んだ。
黙っているのをいいことに、フラウは教会内へ戻り、自室へ帰る。そして、あまり使われないベッドに、テイトを勢いよく放り込むと、その隣に自分の身を滑り込ませた。
「ちょ、な……っ」
「いいから。黙って寝ろ、テイト」
眠い、と言うフラウは、深くテイトを抱き込む。彼が本気で眠いのを察したテイトは、大人しく横になることにした。
3秒も経たない内に、フラウから規則正しい寝息が聞こえてくる。だが、抱き込む腕は緩まない。それどころか身じろぎする度、腕の力が強くなる。テイトは仕方ないと諦め、せめてと瞳を閉じる。
(………あたたかい。落ち着く……)
そのうち、うとうととし始めてきた。ゆらゆらと気持ちがいい。訪れたまどろみに意識を委ねる。
しばらくして、テイトの静かな寝息が部屋に響き渡った。
「………ようやく、寝たか」
眠った振りをしていたフラウは、目を開けてテイトを見た。腕の中の存在は、穏やかな寝顔を見せている。
いつもは憎まれ口を叩く彼も、こうしていれば可愛いのに、と思う。
「おやすみ、テイト。良い夢を」
ただ、願わくばこの天使の心の傷が早く治りますよう……。
額に優しいキスを一つ落とし、今度こそフラウは眠りについた。
翌朝、同僚を起こしに来たカストルが眠る彼らを発見し、ラブラドールとともにフラウに制裁を加えようとするのは――――また、別の話である。