穏やかなある日の午後。
東方司令部の若き司令官であるロイ・マスタング大佐は、街の見回りから帰ってきた。
こっそり門をくぐって裏庭にまわり、誰もいないのを見て、外壁に自分の執務室まで梯子を練成する。
窓から部屋に入って外壁を元に戻すと、ロイは気配を殺してすぐさま司令室に繋がる扉を確認した。鍵はかかっている。次に机の上を見る。書類や道具は一つも位置を変えてはいない。
そこまでして椅子に座り、ようやくロイは一息ついた。
「よかった。誰も入っては来なかったようだな」
そう呟いて、万年筆を手にし仕事を再開する。
何故、司令官ともあるロイが自分の部屋に入るだけにこのような泥棒の真似事をしていたのか。
理由は簡単。見回りと称したサボリ、に出ていたからである。
その証拠に、机の上には書類が20cm程積まれている。処理済の分はそれより少し高いくらいだが、それは朝早くから昼までかかって仕上げた分だ。ここ2日程ロイは執務室でデスクワークばかりやっている。裁可待ちの
書類が大量にあったからだ。もちろんそれらを溜めていたのは自分なので自業自得の筈だが、本人に反省の色は見えない。それでも仕方ないと今日の昼までは大人しく書類を裁いていたが、退屈の虫が疼きだし、「昼食の後集中してやりたいから」
と部下に言って扉に鍵をかけ、こっそり窓から外へと出て行ったのだ。
カリカリとペンの走る音がする。窓からは爽やかな風が流れ込み日差しは暖かい。仕事を再開して間もないロイを眠気が襲ってくる。
(…あー、気持ちがいいなぁ。いっそこのまま昼寝でもするか)
自然と欠伸がこぼれてくる。万年筆を転がして、机の上に頭をつけた。
「「こんにちはー」」
隣の司令室から軍部には似つかわしい子供の声が2つ聞こえてきた。ロイの眠気が一気に覚める。空は既に赤くなりかけていた。
「っ!この声は…!!」
2つの声の内に聞き間違えることのない愛しい人の存在を確信するや、すぐにロイは鍵を開けて司令室へと落ち着いた感じで足を踏み入れた。
「君が来るといつも騒がしくなるね。鋼の」
「うるせぇ、大佐」
笑顔の挨拶に、司令室の面々に囲まれていた1人の子供が口悪く言って睨む。子供の隣にいた鎧の人物は、そんな子供に苦笑しながらロイに挨拶をしてくる。
太陽の光を集めたような金髪を三つ編みにし、背にフラメルを描いた真紅のコートをまとう、蜂蜜色の目をした少年と、同じく肩にフラメルを負い子供独特の声をした、2mはあるだろう鎧の人物の、奇異な2人組。
彼らこそ、かの有名なエルリック兄弟であり、少年が兄・エドワード、鎧が弟・アルフォンスである。
「はい。報告書」
「今回は随分と長い旅だったわね」
「あっちこっちで噂だけ、は色々あったから」
「その分君の名もあちらこちらから聞こえてきたがね」
「すいません。行く先々で兄さんが騒ぎを起こすもので」
「オレのせいじゃねぇっつーの」
「でもよ、おかげでお前らの無事がよーく分かったぜ」
「その通りだ。ただ少しばかり問い合わせが多くてね。『アレが本当にあの鋼の錬金術師なのか』という」
「誰が豆のようなどチビだコラっ!!」
『言ってない。言ってない。』
「大佐、一言余計です」
相変わらずの反応に司令部の面々は和やかに笑いあう。もちろんロイもだ。
口では何かと言い合うが、結局は皆この兄弟が大好きで心配しているのだ。
「で、大将。今回はどれくらいここにいるんだ?」
ハボック少尉が聞くとエドワードは、
「悪ぃ。明日の朝にはもう行かなきゃ行けないんだ」
とすまなさそうな顔をして答えた。聞けば幼なじみに呼ばれてリゼンブールへ帰る途中に、と立ち寄っただけらしい。
「そっかぁ。まぁせいぜいゆっくりしろよ」
「二人とも無茶が多いから、ちょうどいいと思うよ」
「子供の内の無理は成長の妨げになる、とよく言いますな」
「マジッ?!ファルマン准尉!」
「あー。大将の場合もう遅いんじゃね?」
「エドは無茶ばっかりだしな」
「………少尉たち。オレにケンカ売ってるの?」
『イーエ。メッソーモナイデス;』
「遠慮するなよ。今なら10倍の値段で買ってやるぜ」
騒ぎながらも楽しそうに話す彼ら。それを横目にロイは少し考えこむ。今聞いたことを元に頭の中で本日の予定を組み直しているのだ。
(偶然見つけた彼好みのレストラン。話題にするのは先日高名な錬金術師が発表した新しい論文。きっと彼は食い付いてくるだろう。もちろん話は適当なところで切り上げる。
議論を口実にそのまま家まで誘い込めば、後はどうにでもできる。そうすれば朝まで甘い時間が…)
そして、彼は十人中七人の女性が落ちるだろう甘い笑みを浮かべて、呼びかけることにした。
ただし、その隣で冷たい視線を向けている存在には気づかないままで。
「鋼の。いや、エディ」
「却下。っつーかエディ呼ぶな」
エドワードはさらりと即断した。理由は簡単。彼の笑みが信用できない。エドワードの直感が、アレは怪しいと告げている。
用件を言う前だったこともあり、ロイは憮然として言い返した。
「まだ何も言ってないじゃないか」
「大佐のことだからどうせ、夕食を一緒にどうかね?、とか言うつもりだったんだろ」
全部お見通しとばかりに顔をしかめる。図星を指されたロイはうっ、と一瞬沈んだが、諦め悪く彼に言い寄る。
「そう言わずに一緒にどうだい?」
「い・や・だ」
「この間おいしいシチューの店を見つけてね。値段もリーズナブルで、5つ星レストラン級の味なんだ。多分君も気に入ると思うよ。行ってみないかい?もちろん私の奢りだ」
「え、そんなにおいしいの?」
「あぁ。(よし、もう一押し!)あ、そういえば先日発表されたシェーマス博士の論文のコピー、手元にあったな」
「マジで?!い…あー……やっぱ、いいや」
「?!…どうしても、行かないと言うんだな?」
「っどうしても!行かねぇったら行かねぇよ!!」
絶対行かないかと言えば嘘だ。シチューは好きだし、論文は読みたいし、別にロイが嫌いなわけでもない。
しかし今回は行きたくなかった。今までこういう顔をするロイに何度か嵌められかけたことがあるだけに、余計警戒する。
(明日の朝には出発しきゃ行けないんだ!でないとウィンリィとの約束に間に合わない;)
電話で念押しもされた。間に合わなかったときの事を考えるだけでも怖い。
そんなエドワードの心情も露知らず。更にしばらく続いた押し問答に痺れを切らしたロイは、とうとう暴挙に出た。
「では、上官命令だ!鋼の、夕食に付き合いたまえ!!」
「なっ?!きったねーぞ!!大佐!」
「断る君が悪い!」
((大佐、それは職権乱用なんじゃ………;))
全員が心に同じ事を思った。その瞬間であった。
パシュッ!! ビシッ!
突然の軽い音。一瞬にして場が凍りついた。
「………ち、ちゅうい…」
「大佐。それ以上は国家権力の濫用、及びパワーハラスメントとみなします」
「ぱわー何とかって?」
「パワーハラスメント。上司が部下に対して、または高い職能をもつ者がそうでない者に対して行う嫌がらせなどのこと。『三省堂・デイリー新語辞典』より」
「嫌がらせなどとは失礼な!」
「っつーか、そんな言葉あったのかぁ」
「最近できた言葉だよな」
「物知りなんですね、ホークアイ中尉って」
感心する司令部のメンバーたち。その隣では舌戦が続く。
「断るエドワード君に、上官である立場を利用して夕食同伴を強要する。立派なパワハラじゃありませんか」
「私が滅多に会えない部下と心の交流をはかって、何が悪い?!」
「別に今図らなくてもよろしいでしょう。彼が国家錬金術師になって、一体何年になるとお思いですか」
「しかしだな。その間にエディが司令部に来たことなど、数えるほどしかないじゃないか!」
「ドサクサにまぎれて、エディ言うな」
「何にせよ、大佐はエドワード君と夕食を共にすることは、絶対に不可能です」
きっぱりと、リザは言い放った。
「何故だ!その根拠を言いたまえ!」
妙に自信のある言い方に不安を覚えながらも聞く。
「大佐は本日夜勤なので朝まで仕事です」
決定的な一言を放った。
「…勤務時間は、いくら大佐でも変えられないですよね」
アルフォンスが1人、ほがらかに言った。
「………う、うそだ」
「本当です。そうでしたね?フュリー曹長」
「は、はい!!間違いありません!」
勤務表を見てあわてて返された言葉に、リザは満足げにうなずく。それから机の一角に積まれた書類の1山を指すと、
「それとこちらの書類もお忘れなく。大佐が昼から外へお出かけになったり寝ていらしたりした間に増えましたから」
驚愕に大口を開けて固まるロイ。
執務室の鍵は掛けてあった。誰かが入ってきた形跡もなかった。なのにどうしてソレを知っているのか?!
「…どっちにしても、大将との食事は無理っスね」
ハボックの一言がとどめをさした。
「あ、くずれた」
「こういうの自業自得、っていうんだよね?」
「アル!……あー、大佐。その、えっと」
「エドワード君」
リザの呼ぶ声に逆らえないものを感じて、エドは振り向いた。
「ところで今日の宿はどうするのかしら?」
「え、まだ決めてないけど」
「だったらウチに来ない?アルフォンス君も。夕飯ご馳走するわ」
「けどご迷惑じゃないですか?」
「そんなことないわよ。2人と話すのは楽しいもの。ブラハも会いたがってたしね」
リザは滅多にない兄弟限定の優しげな微笑みを浮かべる。2人はしばし顔を見合わせ、
「「お世話になりまーす」」
声をそろえて答えた。リザも嬉しそうに笑う。兄弟たちはロイのことを見捨てることにしたらしい。
「ホークアイ中尉。今日はもうあがりの時間じゃないですか?」
「え、あら。そうね。でも仕事が…」
「これくらい俺たちでやっときますって。あと少しですし」
「そうですよ。それに彼らを待たせるのも悪いですから」
「夕飯の買い物もおありでしょう。たまには少し早めにあがられては?」
「後は任せてくださいよ」
口々に言う司令部の面々。リザは苦笑しながらも彼らの気遣いに感謝する。
「じゃあお言葉に甘えさせてもらうわ」
ちらりと石と化した上司に視線をやり、エルリック兄弟をうながして司令室を出る。
「おつかれさまでした」
「またねー。少尉ズ、准尉、曹長」
「お仕事がんばってくださいね。みなさん」
笑いながら去る3人に、彼らは手を振って見送った。
そして出て行ったのを完全に見届けてから、残されたハボック少尉たちは安堵の息をついた。
「中尉の機嫌が良くなってよかったー;」
「本当ですね。さっきまでは酷いものでしたから」
「しかし、問題はここからだなぁ」
「そうですね;」
彼らの目線先にあるのは、口を半開きにしたまま放心して床にへたりこむ上司。普段の色男ぶりはどこへやら、といった姿は事情を知っていても悲しくなるほどだ。
とりあえず動かない上司をどうやって元に戻すか。その問題に頭を悩ませ、彼らは一同に溜息をついた。
その日の夕方、商店街ではご機嫌顔で歩くクールビューティーと楽しそうに笑いあうイーストシティ名物・鋼兄弟の、家族のような微笑ましい姿が見られたそうだ。
そして翌日の朝、見送りにと駅のホームに立つリザの隣には、目の下にクマを作って若き東方司令部司令官がいたとか。