デルフィニア王宮の西離宮に住まう王妃とその侍女を尋ねて、女官長のカリンが訪ねてきたのは、この日の昼食を終えて一休みをしている時であった。
「やぁ、カリン。ここまで来るなんてめずらしいな」
椅子に座ってシェラの入れたお茶を飲みながら見上げるリィ。椅子を勧めても立ったままで、カリンは改まって言う。
「えぇ。少々お願いごとがございまして」
「オレにか?」
「正確には妃殿下とシェラに、でございます」
「オレと、シェラ?」
給仕のためにと隣に立っていたシェラとリィは顔を見合わせる。お互い不思議といった表情だ。
「あの、何でございましょうか?」
控えめにシェラが問う。それをみて、ほぅと溜息をついて、話を切り出した。
「実はシェラをこちらに貸していただきたいのです」
「シェラを…本宮にか?」
「えぇ、10日間ほど」
「オレは構わないけど。シェラはどうだ?」
「そうですね。ですが…カリン様。私の代わりは一体誰が?」
「それは…まだ決まってないのです」
カリンの迷い様は当然と言ってもよかった。何しろこの西離宮は本宮を少し離れた森のなかにあるため、夜は足元が全く見えず、城の女官たちには行き来が出来なかった。
かといって、ここに住む王妃の世話をしないわけにはいかず、やるなら住み込みしかない。だが、ここには王妃の友達である狼がよく来る。
おかげで、シェラが来るまでは、誰一人として王妃の世話に1日と持たない状況が続いていたのだ。
「別にオレはいいけどな。一人でも十分だし」
「何をおっしゃられますか!一国の妃殿下が離宮に1人など、姫様であった時とは違い、駄目に決まっています!」
「そう言うなよ。だって、誰も来たがらないんだろ?無理強いしてこっちに寄越しても可哀想じゃないか」
リィの言葉が正しいだけに、カリンはぐっと言葉に詰まってしまった。事実であるだけに、返す言葉もない。それを見て取ったシェラはカリンに助け舟を出すつもりで尋ねた。
「…あの、差し支えなければ、今ここでご事情をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「そうだな。シェラをそっちに寄越してほしい理由がまず先だろ」
それによっては違う策があるかもしれない、とリィに言われたカリンは、しばし逡巡すると、おもむろに話し始めた。
「半年程前、本宮に新しく入った者がおりまして。その者に関わることなのです」
「…あぁ。もしかして、ミーシャのことでしょうか?」
「そうなのよ」
「ミーシャってのが、新入りの子の名前?」
リィの問いに、2人が頷く。どんな子なのかと聞けば、地方の小貴族の娘で、愛らしく優しいのだが、少々人見知りとそそっかしい所があるそうだ。本宮で働いているのは、親戚筋からの紹介で、親の意見もあって花嫁修業のつもりらしい。
「花嫁修業に女官の仕事って、厳しくないか?」
「けれど、本人は今の仕事が楽しいそうです」
「こちらとしても、それほど酷い粗相をする娘ではありませんから、一向に構わないのですが…」
言葉を濁して、カリンは少し躊躇った後、切り出した。
「今度、ミーシャが結婚することになったのです」
その言葉に、思わずシェラは唖然としてしまった。リィはその様子に気付かず、素直に喜ぶ。
「へ〜っ。それは良かったじゃないか」
「ところが、そうはいきません。彼女は、礼儀作法と料理が、苦手、なのです」
「…それって、何かマズいのか?」
「まずいに決まっています!ミーシャが嫁ぐ相手は、中貴族の方なのですよっ?!」
カリンの叫びに、リィは気付かれぬよう首を傾げた。それがわかったシェラは、小さな声で説明する。
田舎の小貴族と結婚するくらいなら、家事程度だけで済むだろう。だが、相手が中以上だとそうはいかない。貴族の客を家に迎えたり、大きなパーティーに出席したりすることだってある。そして、それはできて『当たり前』なことなのだ。できないとなると、妻の品位は落ち、それが後々夫・家の名声の没落につながっていく。
それゆえ、礼儀作法ができなければ貴族の妻としては非常に拙いということである。
それで納得したリィは、再びカリンと話をし始めた。
「それで、シェラを貸してほしいと?」
「はい。今いる女官達の中では、シェラほど、彼女と歳が近くて、礼儀作法・家事一般が得意な者はいないものですから」
カリンの賛辞に、シェラは恐れ入ります、としとやかに頭を下げた。確かに、シェラは女官として、全てが一流である。それはリィも認めるところである。
しばらく考え込んだリィは、しかし、ふとある良い考えを思いついた。
「そうだっ。その子がこっちに泊まって、礼儀作法とかの勉強をすればいいんじゃないか?」
この、思いがけない王妃の一言に、カリンは一拍置いて、それは確かに良い考えだと喜んだ。
ところが、これに反対したのが、シェラである。
忘れられがちだが、シェラは男である。ここにいるのは、リィ一人だし、時折来るのはシェラのことを知る者たちばかりである。が、ミーシャが泊まるとなると、いつ何時着替えを見られるなどの事故が起きるかもしれない。
それに、台所、寝室…至る所に侵入者対策として武器を隠してある。見つかった時どう言い訳しろというのか。
「ミーシャも普通の女の子ですから、ここで一時でも生活したがるとは思いませんけど…」
「その子さえよければ、だ。心配するな、シェラ。ゴルディなら、今忙しくてここに来れないって言ってたから」
にこりと笑って言うリィに、違います、と面と向かって言いたいシェラ。だが、立場上それはできなかった。
「では、早速ミーシャに聞いてみます」
そう言うと、善は急げとばかりに、カリンは本宮へと帰っていった。
「…………リィ」
「怒るなよ。わかってるさ。けど、カリンの頼みを断るわけにもいかないし、シェラなら一緒に住んでてもバレるような真似はしないだろ」
信用されているのは嬉しいシェラだが、それでもミーシャをここへ呼ぶことを提案したリィに恨めしげな視線を向けてしまう。
それに苦笑したリィは、大丈夫だともう一度シェラに言った。
「普通の女の子なら、ここへ来るなんてことはないんだろ?多分、来ないと思うけどな」
お茶のおかわりを要求して、リィはのんびりとし始めた。
「…本当に、そうなるんでしょうか?」
胸に一抹の不安を抱え、シェラはお茶を注ぎながら小さく呟いた。
その不安がよもや当たるなど、後日荷物を持って嬉しそうな赤毛の少女がカリンに連れられて西離宮を訪れるまで、誰もわからなかった。